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浦和地方裁判所 平成4年(ワ)1275号 判決

原告 甲野太郎

右訴訟代理人弁護士 萩原猛

被告 国

右代表者法務大臣 前田勲男

右指定代理人 松村玲子

〈ほか五名〉

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し、金一七一九万円及び内金一五〇〇万円に対しては平成四年三月二一日から、内金二一九万円に対しては平成四年九月二九日から、それぞれ支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  主文同旨

2  担保を条件とする仮執行免脱の宣言

第二事案の概要並びに当事者の主張

本件は、詐欺罪で起訴され、第一審で無罪に確定した原告が、検察官の当該起訴が違法であったとして、国家賠償法に基づき、国に対して慰謝料等の支払を請求した事件である。

一  争いのない前提事実

以下の事実については、当事者間に争いがない。

1  (公訴の提起)

平成二年一〇月二二日、当時浦和地方検察庁検察官検事であった乙山春夫(以下「乙山検事」という。)は、浦和地方裁判所に対し、次の事件(同裁判所平成二年(わ)第七三五号詐欺被告事件。以下、起訴前の捜査段階を含めて、この刑事事件を「本件」という。)について、公訴を提起した(以下「本件公訴提起」という。)。

(一) 被告人 原告

(二) 身柄 勾留中

(三) 罪名 詐欺罪

(四) 公訴事実 別紙一記載のとおり(以下「本件公訴事実」という。)

2  (公判における争点の骨子)

(一) 検察官の主張

本件の公判手続中の冒頭陳述において、立会いの検察官は、別紙二記載のとおりの事実を述べた。

(二) 原告の弁解及び弁護人の主張

これに対し、公判手続において、被告人であった原告は、

「自分は、当時、有限会社丙山(以下「丙山」という。)の実質的経営者ではなく、また、丙川松夫(以下「丙川」という。)らとサウナの騙取を企てたり、共謀を遂げたことは全くない。丙川らの本件サウナの騙取は、自分の与り知らぬことである。」旨、また、「自分から丙川に交付した丙山代表取締役丁原竹夫(以下「丁原」という。)振出名義の手形については、全て丙川に請われるまま、融通手形として交付したものである。」

旨の弁解をし、原告の弁護人も、原告の右弁解を前提として、

「本件は、自ら戊田梅夫(以下「戊田」という。)に進言してサウナ販売の新事業を開始した丙川が、販売不振のため窮地に陥り、地元に知人の多い原告と丙山を利用して、丙山への販売を仮装し、戊田を欺罔してサウナを騙取しながら、丙山がこれをバッタ売りしたことにして、責任を原告に転嫁しているものである。」

旨主張した。

3  (無罪判決の確定)

浦和地方裁判所は、平成四年三月五日、本件について原告を無罪とする判決(以下「本件無罪判決」という。)を言い渡し、同判決は、検察官からの控訴がなく、同月二〇日、確定した。

二  原告の主張(請求原因)

原告の主張する請求原因は、概ね次のとおりである。

1  公訴提起の違法性の判断基準

(一) 準司法官としての検察官の役割

捜査は、被疑事件に対する嫌疑の有無と情状関係を明らかにし、検察官による起訴・不起訴の事件処理を決定するものであって、公判とは別個の独立した手続体系として把握されるべきである。

公訴を提起された者は、本来有罪の判決があるまでは無罪と推定されるとはいえ、我が国において刑事裁判の有罪率が高いこともあって、現実には起訴されたことそれ自体で、既に有罪判決を受けた場合に近いような社会的評価を受けてしまう。

したがって、公訴権限を独占し、広範な訴追裁量権を有している検察官には、かかる重要な職務を担当する上で、公務員一般にもまして基本的人権を侵害しないよう特別の慎重さ、真摯さが要求されており、検察官は、捜査の手続においては、単なる捜査機関ではなく適正な捜査手続の擁護者であり、捜査機関と被疑者との実質的対等の原則を実現すべき義務を有する準司法官である。換言すれば、検察官は、警察捜査の批判者として位置づけられる存在であり、警察捜査の不十分、不適正な点については常に監視し、これを発見した場合には速やかに是正し、被害を受けた者を救済する義務を負担している。

(二) 違法性の判断基準

捜査の手続における検察官の右のような準司法官たる地位に鑑みれば、公訴提起の時点において、検察官が、当該事案の性質に鑑み当然なすべき捜査を遂げなかったため証拠資料の収集が不十分であった結果、あるいは収集された証拠資料の取捨判断を誤った結果、経験則上肯認しがたい心証形成をし、客観的にみて有罪判決を得られると期待しうるだけの合理的な根拠が欠如しているにもかかわらず、あえて公訴を提起した場合には、当該公訴提起は違法となると解すべきである。

2  本件の特殊性

(一) 共犯者の自白の危険性

本件において原告を犯行と直接結び付ける証拠は、丙川、丁原ら共犯者の自白であるところ、犯罪に関与したが、その関与の程度が明らかになっていない者が、第三者を巻き込んで自己の刑責の軽減を図ろうとすることがあるということは、多くの判例の教えるところである(最判平成元年六月二二日、同昭和四三年一〇月二五日)。

したがって、被疑者の罪責の根拠が共犯者の自白にかかる本件のような事案の捜査にあたっては、捜査に携わる者は、被疑者の弁解に謙虚に耳を傾け、その主張する事実関係の成立する余地がないかどうか、慎重の上にも慎重な検討をすることが要請されていた。

なお、本件における丙川らの自白の危険性については、次の3項において具体的に主張する。

(二) 被害者の供述の問題性

本件の被害者戊田は、昭和五九年六月以降、丙山振出しの手形が次々と不渡りになったことから被害に遭ったことを知り、たまたま連絡をしてきた本件のもう一名の共犯者甲田夏夫(以下「甲田」という。)の身柄を押さえて同人を自宅に約一週間留め置いた上、その間に同人から得た情報をもとに一応の事実を認定し、その立場で、丙川を業務上横領罪の嫌疑で告訴するとともに、原告及び丁原も丙川と共謀していた旨申告した。

戊田は、甲田から得た情報により、当初から本件は右四名(丙川、原告、丁原及び甲田)の共謀による犯行であるとの予断を強く抱いてしまったと考えられる。

このような場合、捜査官においては、戊田の供述に右予断に基づく事実の歪曲が存しないかどうかについて、慎重な検討が要請されていたというべきである。

(三) 捜査経過の特異性

本件において、捜査機関は、戊田の告訴を受理した後、同人及び甲田から事情聴取を行って昭和六三年までに各四通の供述調書を作成し、秀朋産業株式会社(以下「秀朋産業」という。)からはサウナの出庫状況の調査をするなどしてある程度の基礎捜査を遂げたものの、その間、丙川らのように逃亡していたわけでもない原告からは一度として事情聴取をしていないばかりか、丙山の事務所のある前橋市内の丁川ハイツ四〇五号室の捜索すら行わなかった。

その後、本件の本格的な捜査は、戊田の告訴から約六年二か月、本件の公訴事実とされた昭和五九年五月一八日の取引から六年四か月、謀議の時点から六年八か月、発端となったサウナの取引からは実に満七年を経過した時点に至ってようやく開始された。なお、検察官による事情聴取は平成二年一〇月になるまで行われなかった。

このように、本件は、本格的な捜査の開始されるまでに公訴時効期間になんなんとする六年数か月の長期間が経過していた事案であって、その間に良質な証拠が散逸し、関係者の記憶にも大幅な減退ないし変容があったと考えざるをえない。

したがって、本件を送致された検察官としては、右のような証拠の散逸や記憶の減退・変容に十分意を注ぎ、慎重な捜査をなす義務があった。

3  争点の検討―検察官の心証形成の非合理性

(一) 原告が丙山の実質的経営者であったという認定について

(1) 検察官は、丁原が丙山の代表取締役に就任した後も原告において同社の手形の振出権限を独占し、丁原の承諾を得ることなく独自の判断で同社の手形を振り出していたという事実から、原告が丙山の実質的経営者であったという事実を認定、主張した。

これに対し、原告は、捜査段階より一貫して、「それまでの経緯から、丁原に手形の管理を任せると、同人は手形を乱発して不渡りを出す危険性が大なので、原告が手形帳等を管理していた」旨弁解した。

たしかに、丙山のような個人会社においては、会社名義の手形の振出権限を有する者が通常当該会社の実質的経営者である場合が多いということはできるが、それは、当該会社が企業体として正常な経済活動を行っている場合に初めていえることであって、当該会社の実質的経営者が誰であるかという問題は、当該事案における具体的な事情を前提にして個別的に判断しなければならない。

本件について、検察官が十分な捜査をし、関係証拠を子細に検討していれば、①丙山は、昭和五八年五月に乙野花子が代表取締役として登記をされて以来、完全に休眠状態になってしまった会社であり、会社とは名ばかりで、単に形骸化した法人格ないし登記名義だけが残存していたにすぎず、会社としての実体を全く喪失していたこと(もとより、従業員もいないし、独自の事務所もなかった。)、②かかる状況下で、原告は、丁原から「健康器具の販売業を営んでいるのだが、個人では信販会社のローンが組めなくて困っている。」との相談を持ち掛けられたため、同人が丙山という残存登記名義を利用して健康器具の販売業を営むことを許したにすぎないこと、③原告は手形を融通手形(いわば金融の道具)としてしか利用したことがなく、丙山の手形もやはり金融の道具として自己の専有物としていたこと等の事情を認めることができたはずである。そして、右諸事情を前提にすれば、丁原が丙山名義を利用して行う経済活動に原告が関与していないということも十分ありうることであり、逆に、原告が丁原の活動とは無関係に丙山の手形を振り出すというのも不自然なことではないのである。

以上によれば、丙山の手形振出権限を独占していたことから原告が同社の実質的経営者であると認めた検察官の認定は、およそ合理的推論の名に値しない現実の実態を離れた短絡的かつ皮相な認定であって、証拠上到底認められないものである。

(2) 次に、丁原の「自分が丙山の代表取締役になったのは名目上だけで、自分は同社の経営や手形の振出しには関与していない。同社の実質的経営者は原告である。」との供述についても、それが共犯者の供述であることに留意して、その信用性を慎重に検討していれば、丁原の代表取締役就任後丙山の経営者が名実ともに同人であったことを推認させる次のような間接事実を容易に看取することができた。

① 丁原は、自ら印鑑証明書を準備して代表取締役就任登記を司法書士に依頼している。

② 丁原は、昭和五八年一一月一七日に自ら丙山の商業登記簿謄本を取り寄せており、捜査機関は右謄本を丁原方から入手している。

③ 丁原は、商品相場の世界で一八年生きてきており、手形を金融の手段として使ったり、マル専手形を他人名義で発行するなど、手形の取引にも関わってきた。

④ 前記丁川ハイツ四〇五号室には丁原の専用の机があり、丁原はここを拠点に健康器具の販売業を行っていた。

⑤ 丁原は、知り合いの松相上から不渡りになるような手形が欲しいと言われ、丙山名義の八〇〇万円の手形を同人に交付している。

⑥ 丁原は、藤沢という偽名で株式会社坂下製作所(以下「坂下」という。)に入社した頃には決済の見込みのない丙山の手形がサウナの支払に充てられていることを認識していた旨捜査段階から供述している。

⑦ 甲田も、「丙山の領収証、納品書、ゴム印、代表印等は坂下の北関東営業所にあり、これを丙川と藤沢こと丁原が利用していた。共謀は明らかである。」旨捜査段階から供述している。

⑧ 戊田も、捜査段階において、昭和五九年一月初旬の時点から丙川が丁原を偽名で坂下に入社させようと画策していたことを示す供述をしている。

⑨ 丙川は丁原を偽名まで使って坂下に入社させるとともに自分と同居させたが、このことは、丙川が、丙山の領収証、納品書、ゴムの記名印及び丸型の代表印を所持していた同社の代表者であり実質的経営者である丁原を自分の手元に置いておき、丙山を売主とするバッタ売りに同人を協力させようとしたからであると考えざるをえない。

⑩ 松浦澄夫も、捜査段階において、丁原が対外的に丙山の社長として行動していたことを示す供述をしている。

(二) 丙山と坂下との最初の取引を認定した点について

検察官は、坂下が昭和五八年九月二五日に丙山に対して健康型ホームサウナ一五台(一台一六万五〇〇〇円)及びカタログ一〇〇〇部(一部五〇〇円)を代金合計二九七万五〇〇〇円で販売し、原告から丙山名義の手形三通(額面はそれぞれ九七万五〇〇〇円、一〇〇万円、一〇〇万円)を受領したものと認定、主張した(以下、右取引を「丙山と坂下との最初の取引」という。)。

これに対し、弁護人は、

「丙川は、ホームサウナの取引の件を原告に全く告げておらず、戊田に手形を融通してほしい旨頼み込んで原告から融通手形を受け取っていただけであるのに、戊田に対しては、右手形を、丙山にサウナを販売した代金として受け取ったものとして渡していたのであって、いわば原告と戊田の双方を欺罔したものである。」

旨主張した。

(1) まず、丙山と坂下との最初の取引については、坂下の経理上そのような処理がされているというだけで、他に商品の流通経路等を明らかにする証拠は全く収集されていない。その上、丙山の事務所に一五台のサウナを運び込む客観的なスペース自体存しないことは、捜査段階から明白である。

(2) 次に、捜査段階で得られた丙川の供述書・供述録取書は全部で一六通であるが、これらの書面中には、丙山と坂下との最初の取引に関してその経緯、商品の流通経路・保管場所等を供述した部分が全くない。

右取引が真実であれば丙川がこれらの事項について全く記憶のないはずはなく、また、右取引は検察官の冒頭陳述における主張によれば本件の共謀成立に至る不可欠の前提事実であるから、検察官は、丙川の取調べに際して右事項について供述を求めるべきであったのに、検察官がこれをした形跡はない。

ちなみに、丙川は、本件の公判手続において右取引における商品の流通経路等につき証言したが、その内容は全く信用できないものであって、検察官が捜査段階でも丙川に対して右の点を追及していれば、丙川の供述に信用性が欠如していることは容易に看取することができたはずである。

(3) 次に、検察官の冒頭陳述における主張によれば、健康型ホームサウナは単価が仕入価格一三万円、卸価格一八万五〇〇〇円とされているにもかかわらず、丙山と坂下との最初の取引においては一台一六万五〇〇〇円で販売されたとされている点について、関係証拠を検討すると、右健康型ホームサウナは、当初仕入価格一三万五〇〇〇円、卸価格一六万五〇〇〇円であったが、その後仕入価格が一三万円に値下げになったにもかかわらず、卸価格は逆に一八万五〇〇〇円と二万円も値上げされたことになるのであって、これは常識的にはおよそ考えられないことである。

また、卸元が代理店に商品を販売してもらうのに、そのカタログ代を一部五〇〇円ずつ徴収するということも、通常の代理店取引ではおよそ考えられないことである。

以上を要するに、丙山と坂下との最初の取引における販売代金の内訳については、後からこれを手形の額面金額に合わせるような作為のあった疑いが濃厚であるにもかかわらず、検察官は、この疑問点を解明すべく十分な捜査を遂げていない。

(4) 最後に、丙山と坂下との最初の取引を含めてホームサウナの売買代金支払のために授受されたとされる坂下の受取手形計一七通は、別紙三記載のとおりであるが(以下、右各手形を同表記載の番号に従って、「①の手形」などという。)、これらを子細に検討すると、ホームサウナの売買代金支払のために授受された商業手形であるにしては、次のとおり余りにも不自然・不合理な点が多い。

① 昭和五八年一〇月七日に授受されたとされる①ないし③の手形三通は、年末年始の慌ただしい時期に、わずか五日おきに次々と支払期日が到来することになっており、手形を三通に分けた意味が全くないなど、商業手形としては極めて不自然である。

② 昭和五九年一月六日に授受されたとされる④の手形の手形番号は、同月二八日に授受されたとされる⑤ないし⑨の手形五通中の三通(⑤ないし⑦)のそれより大きい数字であり、明らかに不自然・不合理である。

③ 同月二八日に授受されたとされる⑤ないし⑨の手形は、五通のうち支払期日を同年六月三〇日とするものが二通、同年七月三一日とするものが二通あるが、支払期日を同一の日にするのであれば手形を二通に分ける意味は全くない。

④ その他にも、各手形の内容をみれば、支払期日が取引の時間的順序に則することなく全く無秩序に定められていたり、昭和五九年一月二八日から同年四月二五日までの間に授受されたとされる⑤ないし⑰の手形一三通中の一二通は同年の六月と七月に一挙に期日が到来し、六月に二八一四万円、七月に一一二六万五〇〇〇円という多額の決済をすることになるなど、各受取手形は、継続的な商品売買取引において商業手形として授受されたにしては到底納得しえない不自然・不合理な点に満ち満ちており、こうした不自然・不合理性は全て、原告から融通手形として取得した丙山の手形を、丙川がホームサウナの売買代金支払のための商業手形のように装って戊田に交付したことに起因している。

(5) 以上のように、丙山と坂下との最初の取引があったという事実は証拠上到底認められない。したがって、検察官の冒頭陳述における主張は、共謀成立に至る不可欠の前提事実がそもそも認められないのであるから、根底から成り立ちえないことが明らかである。

(三) 昭和五九年一月六日のロイヤルホテルでの会合を認定した点について

戊田は、捜査段階において、

「昭和五九年一月六日、坂下の北関東営業所の新年会のため前橋を訪れた私は、丙川の案内で群馬ロイヤルホテルへ行き、同ホテル一階の喫茶店で原告と会い、同年一月一〇日が支払期日の額面一〇〇万円の手形の決済資金として現金一〇〇万円を原告に貸し付け、その際、手形三通(額面合計二九七万五〇〇〇円)の決済資金を融通した見返りとして原告から額面三〇〇万円の手形一通を受け取ったが、これに収入印紙が貼付されていないことに気付いたので、その場でこれを原告に返還し、後日丙川を通じて、収入印紙の貼付された額面三〇〇万円、支払期日昭和五九年二月一〇日の手形一通を受領した。」

旨供述しており、検察官は戊田の右供述を有力な証拠として、原告が本件の共謀に関与した事実を認定、主張した。

しかしながら、戊田の右供述が全く信用できないことは、以下の点から明白である。

(1) 戊田は、右のロイヤルホテルでの会合の件について、平成二年九月二六日付員面調書の中で初めて供述するに至るまで、告訴状や員面調書の中で全くこれに言及していなかった。

右会合は、戊田がサウナの取引ないし手形の授受に関して原告と直に接触した初めての、そして唯一の機会であって、原告を本件犯行と結び付ける上で重要な意味を有するにもかかわらず、戊田が被害後六年以上もの間このことについて供述しなかったというのは不自然極まりないことである。

(2) 戊田の右供述の内容も、多くの不自然・不合理性に満ち満ちている。

① 戊田は、取引先から決済資金が間に合わないので手形をジャンプして欲しい旨の要請を受けて、決済資金を融資しようとした債権者であるにもかかわらず、不可思議なことに、自分の会社に原告を呼び付けることをせずに、自らロイヤルホテルまで足を運んだというのである。

② 戊田は、捜査段階での事情聴取の際に、この件に関して、昭和五九年一月六日付のロイヤルホテルのコーヒー代の領収書のコピーを提出しているが、右のような目的で本社からわざわざ出張してきた社長が、原告から交付された手形に収入印紙が貼られていないことに憤慨してこれを突き返したという状況下で、自らコーヒー代を支払うというのは、通常考え難いことである。

③ 戊田は、原告が戊田から右手形に収入印紙を貼らなかったことを咎められた際、「すいません。正月だったものですから。」と弁解した旨供述しているが、一月六日の時点で収入印紙が一枚も手に入らないということはあり得ず、原告がそのような不合理な弁解をしたという戊田の右供述は信用できない。

④ 手形に収入印紙が貼られていないことに憤慨してこれを突き返したという戊田の右供述自体についても、何も手形をその場で突き返す必要など毛頭なかったわけであるし、ことさら憤慨するというのも理解に苦しむところである。

⑤ 戊田が、融資金の見返り手形を受け取らずに原告に一〇〇万円を交付したというのも不自然である。

⑥ 戊田は、印紙の貼られた手形は右会合の翌日に丙川が持って来た旨供述しているが、坂下の手形受取帳には、右手形が昭和五九年一月六日に授受されたと記載されている。

⑦ 戊田の供述どおり、右会合当日に戊田から原告に手形決済資金として一〇〇万円が交付され、原告がこの金員で昭和五九年一月一〇日支払期日の手形を決済したとすると、原告は、一月六日に受領した一〇〇万円という大金を一月一〇日までそのまま手元に置いておいたことになるが、これは、日頃資金のやり繰りに追われる小企業経営者のとる行動として不自然である。

⑧ 戊田は、「現金一〇〇万円を渡してからはもう用はありませんから、この日はこれで別れました。」と供述しており、原告と営業上の話をした様子は窺われないのであるが、坂下の社長と営業所長、そして、これからサウナ販売の代理店となってもらおうという丙山の実質的経営者が集まった席で、しかも最初の取引の決済に失敗したという状況下において、戊田の記憶に残るような営業上の話題が出なかったというのは不自然である。

(3) 更に、右会合のもう一人の出席者とされる丙川は、捜査段階においてはこの件について一言も供述していない。すなわち、戊田が右会合の件を平成二年九月二六日付員面調書の中で初めて供述して以来、丙川については、上申書一通、員面調書一〇通及び検面調書二通が作成されているのであるから、取調べの過程で取調官からこの件の追及を受けたはずであるにもかかわらず、丙川はこの件について全く供述していないのである。

(4) 前記2(二)において主張したように、戊田の供述には強い予断の混入した疑いがある上に、昭和五九年一月六日のロイヤルホテルでの会合の件に関する同人の供述には以上のとおりその信用性を低下させる重大な事由があったにもかかわらず、検察官は漫然と員面調書の上塗り調書を作成することに終始している。

(四) バッタ売りの利得金の分配を認定した点について

検察官は、本件犯行により騙し取った六〇台のサウナはロジャース戸田店に三〇〇万円で売却され、その中から一〇〇万円が原告に分配されたという事実を認定、主張した。

(1) 捜査段階において、丙川は、かなりの紆余曲折を経て、

「昭和五九年五月一八日の夕方、甲田がロジャースから三〇〇万円を集金して北関東営業所に戻り、その日の夜、自分、丁原及び甲田の三名で原告の家まで行き、三〇〇万円の中から一〇〇万円を自分が原告に渡したか、丁原が原告に渡すのを見届けるかして帰った。」

旨供述した(平成二年一〇月四日付員面調書)。

丙川の右供述自体、甲田の「五月一八日午後八時頃、現金三〇〇万円とパーソナルチェック額面二〇〇万円の合計五〇〇万円を丙川の自宅で丙川に全額渡した。」旨の供述(昭和五九年一〇月二四日付員面調書)と全く矛盾している。

(2) ところが、更に、丙川は、右供述を変更して、「この時は原告は留守で、一〇〇万円は妻の乙野花子に渡した。」旨供述した(平成二年一一月六日付員面調書)。

そして、丁原は、この点につき、捜査段階においては一貫して、当日原告宅で一〇〇万円を原告に直接手渡した旨供述し、その状況を図面にも書いて説明していたのであるが、本件公判手続においては一転して、「原告は留守だったので、奥さんに渡した。」と証言した。

しかし、一〇〇万円を原告宅に届けたというのが真実であれば、それを渡した相手が誰であったかという点について記憶の混同が生ずることは通常あり得ないことである。右両名が供述を大きく変更した理由は、原告方から押収されたパスポート等により、原告が昭和五九年五月一八日は海外出張中であったという事実が捜査官に後日判明したからにほかならない。

(3) 右のような供述の変遷の他にも、「三人が二台の車に分乗して原告宅に現金を届けた。」旨の丙川の供述が、現金一〇〇万円を届けるだけの目的で帰路とは方向の違う原告宅に大の男が三人も揃って二台の車に分乗して出向いたという点でいかにも不自然であることなどを考慮すれば、バッタ売りの利得金の中から一〇〇万円が原告に分配されたという事実は、証拠上到底認められない。

(五) 本件犯行の共謀状況の認定について

検察官は、本件犯行の共謀状況として、原告が丙川に、「どんどん品物をまわしてくれれば、バッタしてお金はいくらでもできる。品物を回してくれ。」と話をもちかけたため、丙川は、当時、原告と共同で有限会社丙川通商(以下「丙川通商」ともいう。)という貿易会社を設立する計画をしていたことから、その運営資金を入手するために原告の右申出に同調したという事実を認定、主張した。

右事実を直接裏付ける供述をしたのは丙川であるが、同人の供述は以下のような不自然・不合理性に満ち満ちており、到底信用できない。

(1) 検察官の冒頭陳述における主張によれば、原告が丙川に対し、三〇〇万円の手形の決済が困難だと伝えたとされている。

ところが、捜査段階において丙川は、当初、「期日になって、丙山の丁原社長がお金が入ってこないから決済できない。丙川さん何とかお願いしますよと頼み込んできた。」と供述しており(平成二年九月二一日付員面調書)、その後、「ジャンプ手形の支払期日が来ましたら、又甲野太郎、丁原竹夫が来まして、資金繰りがどうしてもつかない、決済はできない等というのです。」と供述を変更し(同月三〇日付員面調書)、更にその後、「約束手形額面三〇〇万円について頼みたいと、甲野太郎が営業所の私のところに来まして、……実は、二月一〇日決済の三〇〇万円は出来ないよ、何とかしてくれないかと泣き込んできたのです。」と供述するに至ったのである(同年一〇月二日付員面調書)。また、丙川は右調書の中で、「丁原は、代表取締役といっても名前だけの人間で、主に私と甲野太郎が話をした。」とも供述している。

しかし、丙川の話をした相手が丁原ではなく原告であったことが真実であるとすれば、逮捕直後の平成二年九月二一日付右員面調書に丁原から頼まれたとだけあって原告の名前が登場しないのは、明らかに不自然であり、その後の右のような供述の変遷は、原告を巻き込んで自己の刑責の軽減を図ろうという丙川の意図を如実に物語っている。

(2) 手形決済が困難になった原告がバッタ売りの話を持ち掛けたとされるのは、検察官の主張によれば、既に昭和五八年九月から開始されていた坂下と丙山とのホームサウナの取引について、代理店契約の話まで出ていたという状況下であったことになる。そうであるならば、原告は丙山が代理店として仕入れたサウナを自ら次々バッタ売りして決済資金等を得ればよいのであって、わざわざロイヤルホテルに集まり、丙川に「品物を回してくれ。」などと間の抜けた依頼をする必要は毛頭なかったはずである。

(3) 丙川通商の運営資金を入手するため原告のバッタ売りの申出に同調した旨の丙川の供述も、以下のとおり全く不自然・不合理である。

① 丙川が現実にサウナの売却代金の中から右運営資金に回した金は皆無である。

② 有限会社群馬芸能企画が丙川通商と商号を変更され、丙川がその代表取締役に就任したのは昭和五九年一月二六日であり、その旨の登記がされたのは同年二月一三日であって、しかも、同時に本店の所在地は坂下の北関東営業所と同じ場所に変更されているのである。坂下からサウナを騙取し、これをバッタ売りして得た資金を元に新会社を設立しようというのに、バッタ売りを開始するのと同時期に新会社設立に着手し、しかも、本件犯行の舞台となったその場所に新会社の本店を置くというのは、極めて不自然・不合理である。

③ 丙川通商が、丙川と原告が共同して設立した新会社であるというのであれば、その商号を丙川の名前だけから取るのも不自然である。

(4) 丙川は、右共謀の際の事情として、「甲田や丁原から既に、甲野太郎らが一台七~八万円でバッタ売りしているらしいと何度も聞いていた。」、「甲野がこれまで坂下から仕入れていたサウナをバッタ売りしたことを知ったのです。これじゃもう坂下の売値では全く商売ができないと考えまして、私もつい悪いことを思いつき、サウナをバッタ売りしてお金を作ろうと考えたのです。」と供述しているが(平成二年一〇月一五日付員面調書)、関係証拠を総合すれば、一月下旬の謀議の時点では丙山が仕入れたとされたサウナは一台も売れていなかったことが明らかである。

(5) 以上のとおり、本件犯行の共謀の存在を裏付ける丙川の供述は全く信用できないものであるにもかかわらず、検察官は漫然と員面調書の上塗り調書を作成することに終始している。

4  本件公訴提起の違法性

以上論証したように、本件公訴提起は、担当検察官・乙山検事が、捜査の不十分ないし証拠評価の誤りから非合理的な心証形成をした結果なされたものであり、通常の検察官に許容される裁量の範囲を逸脱したものである。公訴提起時に収集された証拠資料を総合勘案しても、客観的にみて原告に有罪と認められる嫌疑があったとは到底認められない。

したがって、検察官としては公訴提起を差し控えるべきであったにもかかわらず、右事情を看過して本件につき公訴を提起した乙山検事の行為は、同人の過失による違法な公権力の行使に当たるというべきである。

5  損害

(一) 慰謝料 一五〇〇万円

本件公訴提起により、原告は、平成二年一〇月二日の逮捕以来平成三年七月五日保釈により釈放されるまでの間、身柄拘束を継続された。

その後も原告は、本件無罪判決が確定するまでの間、悲嘆、無念、不安のうちに生活し、八回にわたる公判期日への出頭を余儀なくされた。

平成四年五月二六日には刑事補償として一日当たり九四〇〇円の割合による補償金二六〇万三八〇〇円が原告に支払われたが、原告は、長期間にわたり刑事被告人の地位に置かれたことにより、社会的地位、名誉を失墜させられ、後に無罪判決を得るまでの間、自己の冤罪を晴らすために精神的・肉体的に過酷な労力、苦難を強いられ、本人はもとよりその家族に対しても筆舌に尽くし難い苦痛、心労を与えられた。

これによって受けた精神的損害は、右刑事補償金のみによって到底癒されるものではなく、なお一五〇〇万円を下らない。

(二) 弁護士費用 二一九万円

6  結論

よって、原告は、被告に対し、国家賠償法一条一項に基づき、損害賠償として一七一九万円及び内金一五〇〇万円に対しては本件無罪判決の確定した日の翌日である平成四年三月二一日から、内金二一九万円に対しては本件訴状送達の日の翌日である平成四年九月二九日から、それぞれ支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

三  被告の反論

本件公訴提起が違法である旨の原告の主張に対する被告の反論は、概ね次のとおりである。

1  公訴提起の違法性の判断基準について

(一) 判例の採用する違法性の判断基準

無罪判決の確定と捜査及び訴追の違法性について、最高裁判所は、職務行為基準説を採ることを明らかにし(同裁判所昭和五三年一〇月二〇日第二小法廷判決・民集三二巻七号一三六七頁)、かつ、「公訴の提起時において、検察官が……証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑があれば、右公訴提起は違法性を欠くものと解するのが相当である」と判示しており(同平成元年六月二九日第一小法廷判決・民集四三巻六号六六四頁)、判例は、職務行為基準説の中でも、合理的理由欠如説を採用しているものと解される。

もっとも、以上の説示は、公訴提起の違法性の有無についての基本的な判断基準を示したにとどまり、「合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑」の存否をどのようにして判断するのかという具体的な判断基準については、何も示していない。

(二) 違法性の具体的な判断基準

以上に述べるような検察官の公訴提起の特質を考慮すると、検察官の公訴提起は、有罪と認められる嫌疑があると判断した検察官の証拠評価及び法的判断が、法の予定する一般的検察官を前提として通常考えられる検察官の個人差による判断の幅を考慮にいれても、なおかつ行き過ぎで、経験則、論理則に照らして到底その合理性を肯定することができない程度に達している場合に、初めて違法と判断されると解するのが相当である。

(1) 検察官の公訴権行使に当たっての職責

公益の代表者として法の正当な適用の確保を実現するという検察官の職責に照らすと、検察官は、公訴提起に要求される程度の嫌疑が存在している場合には、起訴を猶予すべき事情があると判断したときを除いて、公訴を提起し、裁判所に対してその審判を求め、もって刑事法令が適切かつ迅速に適用実現されるよう図るべき職責を負うものと解すべきである。そうでなければ、裁判所に対し法の正当な適用を請求すべき検察官の職責を放棄することになるばかりか、検察官が起訴・不起訴の処分を決定するに当たり、裁判所の職責である裁判を実質的に自ら行うことになり、裁判所の判断の機会を閉ざすことにもなるからである。

(2) 検察官が公訴提起に当たって行う判断作用の性質

検察官は、公訴を提起すべきか否かを判断するに当たっては、まず、証拠に基づいて事実を認定するのであるが、証拠関係は事件ごとに個別性が極めて強く、量的にも質的にも多種、多様であるから、検察官としては、自己の素養、知識、経験等を頼りに、自己の正当であると信ずるところに従って、証拠を総合的に評価し、心証を形成していくほかないのであって、事実を認定し、犯罪の成否を判断することは、検察官の全人格的判断であるといっても過言ではない。また、殊に、犯罪の成否に関して積極、消極の証拠が対立し、微妙かつ困難な判断を迫られる事案について検察官が専ら消極的な態度で臨むとすれば、それは判断の回避であって、公益の代表者として公訴権を独占する検察官の職責の放棄であるとの非難を免れない。

以上の点にかんがみると、検察官がいかに真摯な態度で事に臨んだとしても、その証拠評価、心証形成には、論理則、経験則の許容する範囲内で個人差が生ずることは当然避けられないのであって、合理的な証拠評価、心証形成といっても、法の予定する一般的検察官を前提として通常あり得る個人差の範囲に対応した一定の幅があることは認めなければならない。したがって、その範囲を逸脱していない限り、検察官の証拠評価、心証形成の合理性を否定することはできないのである。

(3) 刑事訴訟における公訴提起と判決の関係

刑事訴訟においては公訴提起時の証拠資料と判決時のそれとが質的、量的に相違することが十分あり得る上に、判決時の証拠資料に基づく裁判官の判断自体、他の裁判官によって必ずしも支持されるわけではないし、いずれの判断が客観的に正しいかについて決め手はないという性質のものである。

そうすると、たとえ検察官が有罪判決を期待し得る合理的根拠があると判断して公訴を提起した場合であっても、裁判官がその自由な証拠評価と心証形成に基づき無罪の判決をすることは、法律上当然に予定されていることであって、刑事裁判が適正に機能していることの証左であり、そのこと自体は、検察官がその職務上の義務を全うしていないことを何ら意味するものではない。

(三) 違法性の有無の判断資料

検察官の公訴提起の違法性の有無を判断する場合の判断資料について、前記最高裁判所平成元年六月二九日判決は、「公訴の提起時において、検察官が現に収集した証拠資料及び通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑があれば、右公訴の提起は違法性を欠くものと解するのが相当である。したがって、公訴の提起後その追行時に公判廷に初めて現れた証拠資料であって、通常の捜査を遂行しても公訴の提起前に収集することができなかったと認められる証拠資料をもって公訴提起の違法性の有無を判断する資料とすることは許されないものというべきである。」と判示している。

このように、検察官の公訴提起の違法性の有無を判断するに当たり、検察官が現に収集した証拠資料のみならず、通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料をも判断資料に供することは、検察官の公訴提起における違法性の根拠が、公訴提起時における通常の検察官の行為規範に照らした職務上の法的義務違反にあるからであり、職務行為基準説を採り、かつ、合理的理由欠如説に立つ以上は当然の帰結というべきものである。

そして、このことからすると、右判示中にいう「通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料」とは、検察官が公訴提起時までにそれらの証拠を収集しなかったことに義務違反があると認められる場合、すなわち、公訴の提起時に検察官が現に収集した証拠資料に照らし、その存在を予想することが可能な証拠資料であって、通常の検察官において公訴提起の可否を決定するに当たり当該証拠資料が必要不可欠と考えられ、かつ、当該証拠資料について捜査をすることが可能であるにもかかわらずこれを怠ったなど特段の事情の認められる場合をいうものと解すべきである。

更に、当該証拠資料について捜査をすることが可能であったか否かという捜査の可能性を判断するに当たっては、検察官に不可能を強いるものであってはならないことから、当該事件が身柄事件であって時間的制約があったか否かのほかに、捜査当時における社会状況や人的・物的諸事情をも考慮して総合的に判断すべきである。

(四) 小括

以上のとおりであるから、検察官の公訴提起の違法性の有無の判断に当たっては、具体的には、まず、検察官が公訴提起時に現に収集していた証拠資料を明らかにし、次いで、通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料の有無を確定し、現に収集していた証拠資料のほかに通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料があればそれも含めて、当該検察官の判断が、法の予定する一般的検察官を前提として通常考えられる検察官の個人差による判断の幅を考慮にいれても、なおかつ行き過ぎで、論理則、経験則に照らして到底その合理性を肯定することができない程度に達しているか否かを判断することになる。

2  本件公訴提起に至る経過

(一) 捜査の端緒

本件の捜査の端緒は、坂下の代表取締役の戊田が昭和五九年七月七日に大宮警察署長に対し、同社の北関東営業所長の丙川を業務上横領罪で告訴したことによる。

告訴事実では、原告、丁原及び甲田を共犯としていた。

(二) 大宮警察署員による捜査の経過

(1) 告訴人戊田からの事情聴取

戊田の供述によると、本件の経緯及び被害の概要は次のとおりであった。

坂下は、高圧化学反応装置の製造販売業を営業目的としているが、韓国の大韓赤外線株式会社と取引があった。戊田は、昭和五八年三月初旬ころ、同社の理事をしていた丙川と知り合い、同人が日本に帰国した際、同人の企画で坂下の製品であるセラミックヒーターを韓国内で販売して成功したことがあった。その後、戊田は、丙川からセラミックヒーターを利用したホームサウナの販売企画が持ち込まれたことから、同年八月二〇日、丙川を坂下の取締役に迎えた。丙川は、ホームサウナの販売先として丙山を開拓し、同年九月二五日、坂下と丙山との最初の取引として、健康型ホームサウナ一五台とカタログ一〇〇〇部が販売され、その代金二九七万五〇〇〇円の支払として、丙山振出しの別紙三記載の①ないし③の手形三通が交付された。

戊田は、丙川から、丙山の事実上のオーナーが原告であり、元国鉄前橋地区労組書記長の経歴を有し、前橋市内に在住している関係上、前橋・高崎地区に知人が多いという話や、ゆくゆくは丙山を坂下の代理店として育成し、ホームサウナの安定販売を行うようにしたいという提言を受け、前橋市の方がホームサウナを製作する秀朋産業の児玉工場に近いということもあって、同年一〇月一一日、前橋市内に坂下の北関東営業所を設置して丙川を同営業所長に任命し、甲田を同営業所従業員とした。

同営業所における営業の形態は、客からホームサウナの注文を受けると、丙川が注文表を作成して坂下の本社に取り次ぎ、本社から秀朋産業に発注した上、同社から客先あるいは指定場所に出荷するというものであった。

その後、同年一二月末から翌五九年一月初めにかけて、最初の取引分の前記手形三通(金額合計二九七万五〇〇〇円)につき、丙山において決済ができないということであったので、坂下から丙山に貸し付けた資金で手形の決済をした。そして、戊田は、同年一月六日ころ、前橋市内の群馬ロイヤルホテルで原告と会い、貸付金の返済として丙山振出しの金額三〇〇万円、支払期日同年二月一〇日の手形一通(④の手形)の交付を受けた。

ところがその後、丙川は、甲田、丁原及び原告と結託し、丙山発注に係るホームサウナを次々にバッタ売りして横領してしまい、丙山の支払手形は全て不渡りになっている。

(2) 被告訴人丙川の海外逃亡

丙川は犯行後韓国へ逃亡してしまっており、事情聴取はできない状況にあった。

(3) 甲田からの事情聴取

そこで、大宮警察署員は、まず甲田から事情を聴取したが、その供述の要旨は次のとおりであった。

甲田は、昭和五八年一〇月に坂下の北関東営業所の従業員に採用されて以後、丙川の手足となってホームサウナの処分先を探してはバッタ売りしていた。原告は丙山の実質的経営者であり、丙山の手形の発行は全て原告がやっていた。丙山は販売代理店の名目はあるものの実際は営業しておらず、秀朋産業から出荷を受けたホームサウナは直ちにバッタ処分していた。

(4) 甲田及び丁原の逃亡と所在捜査の続行

甲田は昭和六〇年四月二日の取調べ以後所在不明となり、また、丁原も逃亡して所在不明となっていた。

大宮警察署員は、主犯と目される丙川が国外逃亡している上、甲田及び丁原も所在不明の状況下では本件の全容解明は困難と判断し、関係者からの事情聴取を一時中断して丙川、甲田及び丁原の所在捜査を継続した。

(5) 丁原の所在判明と同人の取調べ

丁原は事件発覚後秋田県に逃走していたことが判明し、大宮警察署員は、平成二年五月二八日から同年六月七日までの間任意の取調べを実施したところ、丁原の供述の要旨は次のとおりであった。

昭和五八年六月ころ、原告から「丁原さんをおれの会社の役員にするから印鑑証明を取ってくれ。印鑑を貸してくれ。」と言われてこれに応じたことがある。また、原告から「ホームサウナを仕入れて販売するから、丁原さんも一緒にやって儲けよう。」とも言われた。その後、丙川を知り、同人の誘いで「藤沢則吉」の偽名を使って坂下の北関東営業所の従業員となった。丙山の代表取締役が本名の丁原竹夫となっていたためである。もっとも、自分は丙山の経営、手形の振出しには一切関与しておらず、丙山の実質的経営者は原告である。

バッタ先から貰った代金を丙川に渡したとき、同人から「一〇〇万円を原告に届けてくれ。」と言われて原告に渡したことがある。

(6) 原告の取調べ

大宮警察署員は、甲田及び丁原の各供述から、原告が本件に関与している疑いが強いと判断し、平成二年六月二一日原告を任意で取り調べたところ、その供述の要旨は次のとおりであった。

丙山は、知人の甲川秋夫が事務代行業務の会社をやりたいというので登記費用を融資し、代表取締役甲川秋夫、取締役原告、同乙野花子(後の原告の妻)で発足した。その後に代表取締役が丁原に変更されたことは全く知らない。

自分は、丙山が坂下宛てに振り出した手形については全く関与していない。丙川から頼まれて、ホームサウナ五台を前橋市内の知人に売却したことはある。

昭和五九年五月ころ、丙川から丁原を介して一〇〇万円を受け取ったことはあるが、これは丙川に対する貸金の返済として受け取ったものである。

昭和五九年初めころ群馬ロイヤルホテルで丙川と会ったことがあるが、ホームサウナの話は出ずに、「新潟にいいスポンサーがいるから前橋市内でゲーム喫茶をやるところを探してくれないか。」という話であった。

(7) 強制捜査の実施

大宮警察署員は平成二年九月二〇日、所在が判明した丙川を業務上横領罪で通常逮捕し、同月二二日、浦和地方検察庁に身柄送致した。

丙川は逮捕当初から、戊田、甲田及び丁原らと同様の供述をして犯行を認めた上、原告も共犯であることを自供した。

大宮警察署員は、それまでの捜査結果と丙川の自供に基づき、本件は、業務上横領罪に該当する事案ではなく計画的な取込み詐欺事犯であり、かつ、原告、丁原及び甲田も右犯行に関与したとの疑いを強くし、所在不明であった甲田を除き、平成二年一〇月二日、原告と丁原の両名を詐欺罪で通常逮捕した上、同月三日、浦和地方検察庁に身柄送致した。

(三) 浦和地方検察庁検察官による捜査処理

浦和地方検察庁では、乙山検事が主任検察官となり、本件の捜査処理に当たった。

原告は、任意捜査の段階から終始本件犯行への関与を全面的に否認していたが、乙山検事は、告訴人戊田の前記供述のほか、次に述べる証拠関係を検討した結果、原告についても丙川、丁原及び甲田との共同正犯が成立するものと判断し、平成二年一〇月一一日に丙川を詐欺罪で公判請求した後、同月二二日に原告及び丁原をそれぞれ勾留中のまま詐欺罪で公判請求した。

なお、右判断に至る心証形成過程のうち、原告が前記二3において問題にしている五点については、次項において個別具体的に反論を加える。

(1) 共犯者の供述について

丙川は、大宮警察署員及び乙山検事に対し、

「坂下の北関東営業所長としてホームサウナの販売を担当することになったので、丙山のオーナーである原告に『あんたの会社も代理店として商売してみないか。』と誘い、群馬ロイヤルホテルで会ったが、そのとき、原告が丁原を同行し『自分は水商売が忙しいので、丙山の方はこの丁原を代表取締役にした。丙山を坂下の代理店として取引をしてくれないか。』と言うので、これを了承した。丙山から坂下に対するホームサウナの売買代金の支払は丙山振出しの約束手形三通で受け取り、これを本社に回した。ところが、最初の支払期日の目前になって、原告が『どうしても決済できない。』と言ってきたので、戊田から『本社で立替決済しておくからジャンプ手形を貰うように。』と指示を受け、原告からジャンプ手形を貰って本社に回した。ところが、ジャンプ手形の決済が近づくとまた原告が『決済できない。』と言ってきたので、原告と群馬ロイヤルホテルで会い、『二回目だし、ジャンプできないよ。』と言うと、原告は、『そんな決済金なら、丙川さんの方でどんどん品物を回してくれれば、バッタしていくらでも金はできる。』と言ってきた。それで、取込み詐欺をする決意をし、丙山名義で次々と坂下からホームサウナを仕入れてはバッタをしていった。バッタで得た金を原告に渡し、最初の取引分の約束手形が決済された。それ以後、丙山名義等でホームサウナを取り込み、バッタ処分して換金した。原告にはバッタの分け前金として、一〇〇万円ずつを三回と、八〇万円を一回の合計三八〇万円を渡している。ホームサウナの取込み先として利用した丙山の実質的経営者は原告であり、丁原は名目上の代表取締役にすぎなかった。丙山の坂下へのホームサウナの支払手形の振出しは、全て原告が行っていた。」

と、本件が丙川のほか原告、丁原及び甲田の共謀による犯行であることを終始一貫して供述した。

丁原も、大宮警察署員及び乙山検事に対し、

「私は丙山の代表取締役になっているが、これは名目上のもので、丙山の経営や約束手形の振出しには一切関与しておらず、原告が実質的な経営者である。原告から『ホームサウナの仕入れをして販売するから一緒にやって儲けよう。』と言われた。昭和五九年一月下旬ころ群馬ロイヤルホテルのロビーにおいて、原告と丙川がホームサウナの支払手形のことで真剣に話し合っており、結局、丙川がホームサウナを仕入れ、丙山がバッタをして金に替える話になった。原告が私に、『とにかく三〇〇万から三五〇万円の金がいる。一〇〇台分だ。何とか都合つけてくれ。』と言ってきたので、ホームサウナをバッタ処分して金を作った。昭和五九年五月ころ本件のホームサウナをロジャースにバッタ処分して受け取った三〇〇万円のうち一〇〇万円を、丙川の指示により原告に届けたことがある。」

と、原告が本件に加担した状況を具体的に供述した。

甲田は、本件公訴提起に至るまで依然として所在不明であったため、検察官による取調べはできなかったが、所在不明となる以前には、大宮警察署員に対し、前記のとおり、甲田自身の犯行を自供するとともに、丙川及び丁原の各供述と同様に原告の本件犯行への加担を裏付ける供述をしていた。

丙川、丁原及び甲田の各自供は、告訴人の戊田が供述する本件の経緯や被害状況と符合する上に、本件取込み詐欺の取込み先となった丙山の実質的な経営者が原告であり、不渡りとなった支払手形を振り出したのも原告であるとの点、また、原告が、坂下から仕入れたホームサウナを直ちにバッタ処分することを承知しており、バッタ売りして得た金の分配に与かっていたとの点で一致しており、更に、丙川及び丁原の各供述は、昭和五九年一月下旬ころの群馬ロイヤルホテルでの謀議の場面を含め、原告が本件取込み詐欺に加担した状況についても大筋において一致していた。

検察官は、これら共犯者のうち、自ら取り調べた丙川及び丁原の両名については、いずれも自己の刑事責任を終始率直に認めており、自己の刑事責任を免れ、若しくは軽減するために、ことさら原告に罪をかぶせる必要もなく、他に原告を共犯に仕立てあげる理由も見当たらなかった上、その供述態度も真摯であり、自己の記憶どおりありのままに供述しようとするものであって、その供述は、大筋において信用できるものと判断した。

(2) 原告の供述について

これに対し、原告は、当初の任意捜査の段階においては、「丙山の代表取締役が甲川秋夫から丁原に変わったことは全く知らなかった。」旨供述し、強制捜査の直後においても、「丙山の手形帳、ゴム印等は全部丁原に渡してあった。」などと供述していたが、その後の取調べにおいて、丙山の代表取締役を丁原に譲ったこと及び丙山の手形帳、社印、代表者印等を自ら保管していたことは認めるに至った。

しかし、原告は、なお「丙山の経営者は丁原であり、自分は単に手形帳等を保管していたにすぎず、丁原が丙山をどのように経営していたのか知らなかった。」「本件手形は、丙川を介して戊田社長にいわゆる融手として金額及び支払期日白地のまま貸したものであり、ホームサウナの代金支払として振り出したものではない。」「丙川がやっているという事務所にはオープンしてから一回行ったことがあるが、名前も何を販売しているのかも分からなかった。」「バッタ代金の分配は受けていない。」などと弁解して、本件犯行への関与を否定した。

次項において個別具体的に主張するとおり、乙山検事は、他の証拠関係や原告の弁解自体の変遷状況等に照らし、同人の弁解はにわかに措信し難いと判断した。

3  争点の検討―検察官の心証形成の合理性

(一) 原告が丙山の実質的経営者であると認定したことについて

原告は、丙山の手形の振出権限を独占していたことをもって原告が同社の実質的経営者であるということはできないと主張する。

しかし、乙山検事は、次のような捜査の結果、右認定に至ったものであり、それが経験則、論理則に照らし到底その合理性を肯定することができないものであるとまでいえないことは明らかである。

(1) 丙山の最初の代表取締役であった甲川秋夫は、同社の設立の経緯につき、「昭和五七年七月ころ原告から融資手続等の事務代行業をやろうという誘いを受けて丙山を設立することになったが、原告は不渡りを出したことがあるので代表取締役にはなれないとのことであり、自分が代表取締役に就任した。しかし、丙山の実質的経営者は原告であり、原告が口座を開設し、会社の手形帳や社印等を全て管理していた。自分は名目上の代表取締役にすぎず、結局丙山の仕事にはほとんど関与しないまま代表取締役を辞任した。」旨供述し、その後丙山の代表取締役に就任した丁原も、前記のとおり任意捜査の段階から一貫して、「原告からの誘いで丙山の代表取締役になったが、これは名目上のもので、自分は丙山の経営や手形の振出しには一切関与しておらず、丙山の実質的経営者は原告である。」旨供述していた。丁原のみならず本件犯行に関与した丙川及び甲田も、警察による取調べの当初から一貫して、原告が丙山の実質的経営者であり、丙山名義の手形の振出権限を独占していた旨明言していた。

ところが、原告は、前記のとおり、当初の任意捜査の段階においては、「知人の甲川が事務代行業の会社をやりたいというので丙山を設立し、自分も取締役に就任したが、丙山の経営に関しては甲川が全てやっていたものであり、自分は関与していなかった。」「丙山の代表取締役が甲川から丁原に代わったことは全く知らなかった。」旨供述し、逮捕後の乙山検事の弁解録取の際には、「丙山の手形帳、ゴム印等は全部丁原に渡してあった。」などと弁解しており、その供述内容が他の者のそれと全く異なっていた。

しかし、原告は、その後の本件公訴提起前の取調べにおいて、前記のとおり、丙山の代表取締役を丁原に譲ったこと、及び甲川秋夫が代表取締役であった当初から丙山の手形帳、社印、代表者印等を原告が保管し、同社の手形の振出権限を独占していたことを認めるに至った。

乙山検事は、原告が自己の本件犯行への関与を否定するために前記のような虚偽供述をしたのではないかとの疑いを強くするとともに、仮に原告が弁解するように、丙山の実質的経営者が当初は甲川、その後は丁原であったというのであれば、会社経営に当たって最も重要な手形帳、社印、代表者印等を原告が保管していたのは極めて不自然、不合理であると考え、その点につき原告に説明を求めたが、納得のいく説明を得ることはできなかった。

(2) 原告は、捜査段階において、丙山の経営権を丁原に譲りながら同社の手形の振出権限を独占していた理由について、丁原に手形の振出権限を与えると手形を乱発して不渡りを出す危険があると考えたと供述する一方で、丁原が丙山をどのように経営していたのか全く知らなかったとか、丙川の事業についても何の関心もなかったとか、同人や戊田の信用状況等の調査確認を全くせず何の見返りもなしに多額の融通手形を振り出したなどと供述していた。丙山の約束手形は融通手形として振り出したものである旨の原告の弁解の信用性については次の(二)の中で再び触れるが、原告の右のような供述について乙山検事が通常の取引社会では到底考えられないような内容であると理解したのも、自然な理解の仕方である。

(二) 丙山と坂下との最初の取引を認定した点について

原告は、昭和五八年九月二五日に丙山が坂下からホームサウナ一五台及びカタログ一〇〇〇部を代金二九七万五〇〇〇円で購入し、購入代金の支払として原告が丙山名義の手形三通(別紙三記載の①ないし③の手形)を交付したという事実はないと主張する。

しかし、以下の理由から、丙山と坂下との最初の取引を認定した乙山検事の判断の合理性が経験則、論理則に照らして到底肯定できないとすることは困難である。

(1) 丙川及び丁原は、本件の一連の取込み詐欺が行われることになったきっかけについて、取調べの当初から一貫して「丙山振出しの支払期日昭和五九年二月一〇日、金額三〇〇万円の手形(④の手形)の決済資金を捻出するため、バッタ売りの話が持ち上がった。」旨供述しており、右手形が丙山振出しの前記手形三通(①ないし③の手形)をジャンプして振り出されたものであることは、戊田の供述及び坂下の帳簿の記載からも裏付けられていた。

そして、右三通の手形が振り出された坂下と丙山との最初の取引については、坂下の帳簿のみならず、ホームサウナの製造元である秀朋産業作成の昭和五九年六月七日付け出荷証明書の記載によれば、同社が坂下の北関東営業所長・丙川から昭和五八年八月二九日付け及び同年九月七日付け出荷指示を受け、同年一二月までの間にホームサウナ一五台を同営業所に分納したことが認められ、更に、押収したホームサウナの販売宣伝用カタログ中には、「技術指導株式会社坂下製作所、総発売元株式会社丙山」と印刷されたものが存在しており、坂下がカタログを作成する際に、同社の社名のみならず総発売元として丙山の名前を併記したカタログを別に制作し、その代金として一部五〇〇円あて丙山から徴収したものと認められた。

(2) ところが、原告は、捜査段階において、「丙山が坂下とホームサウナの取引をしていたことは全く知らなかった。ホームサウナの代金決済のために坂下に振り出したとされる丙山名義の約束手形は、丙川に請われるまま融通手形として交付したものである。」旨供述した。

しかし、丙川や戊田の信用状況やその資金の使途等について何らの調査確認もせず、丙川の言うがままに金額合計四〇〇〇万円近い多数の手形を振り出すということ自体、通常の取引社会では到底考えられないことであったため、乙山検事は特にこの点について原告に説明を求めたが、納得のいく説明を得ることはできなかった。また、原告は、坂下の北関東営業所について、「その場所は知っているものの、その名称や業務内容は全く知らなかった。」旨供述していたが、同営業所従業員であった町田敏美及び町田礼子の各供述によって、原告が同営業所によく出入りし、丙川と二人で近くの喫茶店で話をしていたとの事実が判明したため、乙山検事は原告の右供述も措信し難いと判断した。

次に、丙山と坂下との最初の取引の際に振り出したとされる手形三通のうちの二通(別紙三記載の①及び②の手形。金額合計一九七万五〇〇〇円)についても、原告は、これらを融通手形として戊田に貸したものと主張するが、戊田は、昭和五八年一二月一九日にその決済資金を前橋信用金庫東支店の原告名義の普通預金口座に振込送金した際、振込手数料八〇〇円を差し引いた一九七万四二〇〇円を送金していることが認められるのであって、仮に融通手形であるならば、融資を受けた側が振込手数料を差し引くなどということは商取引上まず考えられないことであるから、乙山検事において融通手形を借りた戊田が決済したにしては極めて不自然であると考えるのも自然な理解の仕方であり、原告がこの手数料の差引きにつき戊田に何ら異議を述べていないことからすれば、原告は右手形が商業手形であることを認識していたものと推認された。

原告は、坂下に交付された丙山名義の約束手形一七通について、ホームサウナの売買代金支払のために授受された商業手形であるにしては支払期日等に不自然・不合理な点があり、これは、原告から融通手形として取得した手形を丙川が商業手形のように装って戊田に交付したからにほかならないとも主張するが、仮に原告主張のとおり、原告が金額・支払期日白地のまま数通の手形を丙川に交付したことがあったとしても、坂下に交付された丙山名義の手形はそもそも決済されることを予定しておらず、ホームサウナを騙取する手段として交付されたものにほかならないのであって、原告もそのことを承知していたからこそ金額白地のまま多数の手形を振り出したと考えることも十分可能である。

(3) ところで、本件の公判手続においては、弁護人から、原告が振り出した有限会社丙川通商代表取締役甲野太郎名義の約束手形の写しが証拠として提出され、裁判所は、「被告人が、従前、同業の友人らに対し、何らの見返りもなく多数の融通手形を振り出している事実」を認定した。

捜査段階においては、右各手形についての捜査は行われていなかったが、右各手形は本件犯行時より五年以上経過してから振り出されたものである上に、振出人の名義の点でも、原告が代表取締役となっており、本件犯行に利用された約束手形が「代表取締役丁原竹夫」名義であって少なくとも手形上は原告が振出しに関与しているとは認められない形態をとっているのとは全く異なるものである。しかも、捜査段階において、原告は、「自分が手形を振り出すのは融通手形としてだけであり、丙川に対してのみ多数の融通手形を交付したものではなく、その証拠に本件後においても多数の融通手形を振り出している。」旨供述していたわけでもないから、検察官が捜査段階において原告の弁解の合理性を吟味するに当たり、右「有限会社丙川通商代表取締役甲野太郎」名義の手形についての捜査が必要不可欠であったとまではいえない。

(4) 次に、本件の公判手続において、原告は、丙川の信用状況の調査をせず、その事業内容や資金の使途について問いただすこともせずに、高額、多数の融通手形を交付した理由の一つとして、「二月末から三月ころ、まとめて貸して欲しいと言われた時には不安を感じ、貸し渋ったところ、私から借りた群馬芸能企画を社名変更した会社(有限会社丙川通商)で当座を開設し、その当座に関する手形帳、ゴム印、記名印全てを預けるからそれを担保に貸してくれないかと言ってきたので、それと引換えに彼の希望する一〇枚か十数枚を貸したと思う。」旨供述し、弁護人はこれに関して、有限会社群馬芸能企画と有限会社丙川通商の閉鎖商業登記簿謄本、前橋信用金庫東支店に対する当座取引申込書を証拠として提出した。

しかし、右丙川通商については、捜査段階において、丙川は、「原告との間で新会社を設立する話があり、本件バッタ売りで得た金をその資金にあてようということになった。」旨供述していたが、原告は、捜査段階においては、「丙川から、丙川通商の手形振出権限と引換えに丙山の融通手形の交付を求められた。」旨の弁解はしていなかったのであり、捜査段階において、右丙川通商の商業登記簿謄本等によりその設立の経緯等が認められ、右当座取引申込書により丙川が丙川通商の当座取引の申込みを行ったことが認められたとしても、右事実を前提として原告の弁解の合理性を吟味する機会は乙山検事には与えられていなかったのである。そのような捜査状況においては、乙山検事が本件公訴を提起するに当たり、右当座取引申込書を取り寄せてその記載内容を捜査することが必要不可欠であったとはいえないことは明らかである。

(三) 昭和五九年一月六日のロイヤルホテルでの会合を認定した点について

原告は、戊田と原告とが昭和五九年一月六日に群馬ロイヤルホテルで会合した事実はなく、右会合があったとする戊田の供述には信用性がないと主張する。

しかし、乙山検事は、以下の根拠から、右会合に関する戊田の供述は十分信用に値すると判断したものであり、右判断に対して、経験則、論理則に照らして到底その合理性を肯定することができないものであるなどと非難できないことは明らかである。

(1) 戊田が、平成二年九月二六日に至って、捜査段階の当初は供述していなかった右会合の事実について供述した経緯は、次のとおりである。

前記のとおり、本件については、戊田からの告訴を端緒に、主犯と目された丙川に主眼を置きつつ捜査が進められたが、同人の海外逃亡等により一時捜査が中断された。その後、平成二年五月に事件発覚後秋田に逃走していた丁原の所在が判明したことから、まず同人の任意の取調べを実施したところ、原告が本件に関与している疑いが相当程度強くなった。そこで、同年六月二一日に原告の任意の取調べを実施するに至ったが、原告は本件犯行を全面的に否認した。

このため、原告の関与について更に補充捜査をする必要が認められたことから、再度被害者である戊田からの事情聴取を実施して、特に原告に関する事柄に焦点を絞った取調べを行ったところ、昭和五九年一月六日のロイヤルホテルでの会合の事実が明らかになった。

すなわち、丙山との最初の取引で受け取った別紙三記載の①ないし③の手形三通をジャンプする見返りとして受け取った金額三〇〇万円の④の手形は、昭和五九年二月一〇日に決済されており、その限りでは実害の発生がなく、捜査官も右手形の授受に焦点を置いた取調べを行わなかったし、戊田としても、捜査官から実害を生じている取込み詐欺自体の被害状況を確認するという形で事情を聞かれたため、右会合について殊更述べる機会はなかったという事情が認められた。

(2) そこで乙山検事は、自ら戊田を取り調べるとともに、同人から右会合の際に喫茶室で飲んだコーヒー代の領収書の提出を受けるなどして、その供述の信用性を吟味した。

戊田は、

「丙山名義の約束手形三通の決済資金を提供するに当たり、支払期日が昭和五八年一二月三一日及び同五九年一月五日の二通の手形についてはその合計金額を原告名義の口座に振込入金したが、昭和五九年一月六日には北関東営業所の新年会に出席するため前橋に行くことになっていたので、右二通の手形が決済されたことを確認してから、一月六日に原告と会い、残り一通すなわち支払期日同年一月一〇日の手形の決済資金として一〇〇万円を直接渡せばよいと考えた。丙川の車で群馬ロイヤルホテルに行って原告と会った。一〇〇万円を渡した後、原告から金額三〇〇万円の手形を渡されたが、収入印紙が貼られていなかったので、人の好意を無視するようないい加減なことでは困ると思い、手形ぐらいはきちんとして届けてくれと言って、一旦右手形を返した。既に二通の手形が決済されていたので原告を信用しており、不安はなかった。」

などと述べた。

右供述内容は具体的で臨場感があり、特に不自然、不合理な点は認められなかったこと、戊田から右会合の際に喫茶室で飲んだコーヒー代の領収書の提出を受けたが、同人は、右領収書のみならず、納品書、請求書等の会社の関係書類を全て保管しており、その中から当時の領収書を捜し出したというのであって、右領収書は同人の供述を裏付ける重要な客観的証拠であると認められたこと、更に戊田の供述態度からは同人の極めて実直で誠実な人柄が窺われ、同人が殊更虚構の事実を作り上げてまで原告を罪に陥れるような供述をしなければならない理由は全く見出せなかったことから、乙山検事は戊田の右供述が十分信用に値するものと判断したのである。

(3) なお、昭和五九年一月六日の右会合の事実につき丙川の供述が得られていないことは原告指摘のとおりである。

乙山検事は、右会合について、それが本件の取込み詐欺に至る一過程であり、そこで授受された丙山名義の額面三〇〇万円の手形(別紙三記載の④の手形)の決済資金を捻出することが一連の取込み詐欺のきっかけとなっており、原告が本件犯行に関与していたことを示す一つの重要な事実であると判断したが、右会合自体は本件の謀議そのものではない上に、前記のとおり、この点に関する戊田の供述が十分信用に値するものであったことから、乙山検事は戊田の供述調書をもって立証するに十分であると判断した。そのため、丙川については特にこの点に重点を置いた取調べをせず、調書も作成しなかったのであり、同人が右会合の事実を否定したために調書に記載されなかったのではない。

(四) バッタ売りの利得金の分配を認定した点について

原告は、本件のホームサウナをバッタ売りした代金の中から一〇〇万円が原告に分配されたとの事実は証拠上到底認められないと主張する。

しかし、右事実を認定した乙山検事の判断が、経験則、論理則に照らして到底その合理性を肯定することができないものであるなどと非難できないことは、以下の理由から明らかである。

(1) 右事実については、丁原が任意の取調べの段階から一貫して供述していた上に、同人の日記帳にも、「丙川から甲野へ一〇〇万受け取って自宅へ持参す」と記載されており、作為の跡も認められなかった。

丙川のこの点に関する供述には、月日の経過に伴い記憶が明確でない部分もあったが、少なくとも、バッタ売りの代金の一部である現金一〇〇万円を分け前として原告宅に届けたこと自体については、丙川も一貫して丁原と同旨の供述をしていた。

(2) 他方、原告は、昭和五九年五月ころに一〇〇万円を受け取ったことについては任意捜査の段階から自認していたにもかかわらず、その趣旨について、

① 丙川に対する貸付金二〇〇万円の返済として受け取った。

② 芸者みづきの借金返済のために預かったが、自分で使ってしまった。

③ 芸者みづきの前借金を立替払してやり、丁原を介して同女から一〇〇万円の返済を受けた。

などと次々に種々の弁解をした。

しかし、丙川及び丁原は右弁解を全面的に否定しており、また、右弁解の真偽を確認するための裏付け捜査として、乙山検事が、芸者みづきこと戊原春子及び同女が借金していたという芸者置屋の経営者斉藤美江子の取調べを警察に指示したところ、戊原春子は、「原告に置屋の前借金八〇万円の立替払をしてもらったことは事実であるが、原告に対する借金は、自分が原告経営のクラブでホステスをして給料天引きにより返済しているから、原告が弁解するような趣旨で丙川ないし丁原が一〇〇万円を原告に渡すはずがない。」旨供述し、これを裏付ける同女の給与支払明細写しが提出された。更に、斉藤美江子は、「みづきの借金を返済してもらった事実はなく、甲野という男など全く知らない。」旨供述しており、芸者みづきの前借金の立替払をした旨の原告の供述が全くの虚偽であることが判明した。

(3) ところで、原告は昭和五九年五月一七日に出国して韓国に行き、同月二〇日に帰国したことから、同月一八日に原告自身が日本国内において丁原らから現金一〇〇万円を受領することは不可能であった。そして、丁原及び丙川は、本件公判手続において、一〇〇万円を渡した相手が原告本人か原告の妻であったか明確でない旨供述を変遷させている。

しかし、丁原及び丙川は、捜査段階から一貫して原告宅に一〇〇万円を持参した旨供述しているのであって、本件公判手続においても右供述を維持している。当時から六年以上が経過していたことをも考慮すれば、一〇〇万円を渡した相手が原告本人であったか妻であったかは通常予想し得る記憶違いの範囲内であるとも証価し得るのであり、本件公判手続において丁原及び丙川の供述が変遷したからといって、このことが、前記事実を認定した乙山検事の判断の合理性に影響を及ぼすことはない。

また、原告は、前記のとおり、一〇〇万円を受領した事実についてはこれを認めた上で、その趣旨について種々弁解を繰り返していたものであって、乙山検事において原告が一〇〇万円を受領した事実についてアリバイを主張していたのを無視し、その裏付け捜査を怠ったというような特別な事情は認められないのであるから、同検事が原告の出入国状況を確認した上で丁原及び丙川の取調べを行わなかったとしても、公訴提起の可否を決定するに当たり必要不可欠な捜査を怠ったとはいえないことは明らかである。

(五) 本件犯行の共謀状況の認定について

原告は、本件犯行の共謀状況についての丙川の供述は全く信用できないと主張する。

しかし、原告が振り出した丙山名義の決済期日昭和五九年二月一〇日、金額三〇〇万円の約束手形(④の手形)の決済が困難になったことがきっかけでバッタ売りの話が持ち上がり、以後取込み詐欺が繰り返されたこと、昭和五九年一月下旬ころ丙川と原告がロイヤルホテルでバッタ売りの相談をしていたこと等については、丁原及び甲田も大筋において丙川と同旨の供述をしていた。

謀議の日時に関しては、捜査段階においても丙川らの供述に多少の変遷はあったが、乙山検事は、その期間が昭和五八年暮れから翌五九年二月初めころまでの間であり、当該謀議の日から六年以上が経過していたことを考慮すれば、右変遷が供述の信用性を減殺するものではないと判断した。

原告は、丙川が原告に責任転嫁しようとして虚偽の供述をしていると主張するが、丙川は、逮捕当初から自己の犯行を認めた上、原告、丁原及び甲田が共犯である旨自供し、しかも本件犯行によって得た利益の大半を自らが取得して費消したことなど、自分が主犯格としての役割を果たしたことも認めていたのであるから、その丙川が殊更虚偽の事実をねつ造してまで原告を共犯に引き込まなければならない必要性は全くないし、原告に罪を被せたところで丙川の罪責が軽減されるものでもない。そして、丁原及び甲田についても、虚偽の供述をして原告に罪を被せなければならない理由は全く存在しない。

したがって、乙山検事は、丙川らの供述が信用できると判断するとともに、前記のとおり、原告が丙山の実質的経営者であること、本件に関する丙山名義の手形を全て振り出していることなど原告が本件に関与している状況等を総合勘案して、共謀の事実を認定したのであって、同検事の右判断が合理性を欠く違法不当なものでないことは明らかである。

4  結語

以上のとおりであるから、本件公訴提起の可否を決定するに当たり乙山検事が必要不可欠な捜査を怠ったというような事情は認められないし、同検事が公訴提起時における証拠資料を総合勘案して原告に有罪と認められる嫌疑があると判断したことに合理性があったことは明らかである。

第三証拠関係《省略》

第四当裁判所の判断

一  本件公訴提起に至る捜査の経過

証拠により認められる本件公訴提起に至る捜査の経過のうち、原告が本件公訴事実に係る犯行(以下「本件犯行」という。)につき丙川らと共謀を遂げたか否かという争点に関する証拠資料の収集の経過を中心に示すと、次のとおりである。

1  捜査の端緒

昭和五九年七月七日、坂下(代表取締役戊田)の代理人弁護士二名は、同社北関東営業所長であった丙川を業務上横領罪で告訴する旨の告訴状を埼玉県大宮警察署長宛てに提出し、同日、同署はこれを受理した。

右告訴状記載の告訴事実の要旨は、丙川が、坂下のために占有保管中のホームサウナを廉価で売却して代金を横領する目的で、従業員の甲田に命じて、昭和五九年三月三〇日に四〇台、同年四月一四日に二五台、同年五月一八日に四〇台のホームサウナをそれぞれディスカウントショップに売却処分したというものであり、疎明資料として、坂下のホームサウナの販売事業の内容、右告訴事実等に係るホームサウナの流通経路等を示す資料が右告訴状に添付して提出された。

原告に関しては、右告訴状中の「犯罪の経緯」の主張の中で、原告は支払の意思も能力もないのに代表取締役丁原の名で丙山の手形を振り出し、ホームサウナを丙山に売り上げたという丙川らの報告を坂下に信用させたこと、丙山の出資持分の大半は原告が有していること、丁原を藤沢則吉と変名させて坂下に出入りさせ、その後従業員として入社させたのも原告及び丙川の共謀によるものであることが主張されていた。

なお、当時戊田方に身を置いていた甲田を作成名義人とする上申書もその際に提出されたが、同書面中には、前記告訴事実に係る犯行への関与を認める供述とともに、原告に関しては、坂下の販売代理店であり原告が実質的なオーナーの丙山が、昭和五九年一月頃ホームサウナを一台三万五〇〇〇円でバッタ売りしてしまったこと、丙山の手形は原告が発行しており、手形を不渡りにするのは計画的であったこと等が記載されていた。

2  大宮警察署における昭和六三年までの捜査

前記告訴状を受理した大宮警察署は、業務上横領告訴事件として本件の捜査に着手し、坂下の代表者戊田からの事情聴取と甲田に対する任意の取調べを中心に捜査を進め、両名の供述の裏付け捜査も並行して行い、昭和六三年末までに次のような捜査を遂げた。

(一) 戊田の供述調書の作成

大宮警察署においては、司法警察員が戊田から事情聴取を重ね、昭和五九年中に三通、同六三年一二月に一通の供述調書を作成した。

戊田からは、被害に至る経緯、被害状況、被害後の状況等本件の全般にわたり供述を得たが、原告に関する具体的な供述としては、昭和五八年六月一一日頃上野の風月堂という店で丙川と会った際、丙川の友人の原告を紹介されるとともに、ホームサウナの国内販売について話を聞いたこと、同年八月下旬頃丙川から北関東営業所開設の話が出るようになり、同年一〇月一一日同営業所を開設したが、これは、丙川から、前橋・高崎地区に知人の多い友人である原告との関係を活かし、原告の丙山を代理店として育成したいという考えを示されたためであること、丙山が実際には原告の会社であるという話は原告や丙川から聞いていたこと、昭和五九年三月一日付けで藤沢こと丁原を採用したのも、丙川と原告の話し合いの結果、藤沢の抱えていた販売部員五、六名を丙山の系列下においてホームサウナの営業に専念させることになったとの報告を丙川から受けたためであること等の供述が得られた。特に、丙山と坂下の間の手形の授受の関係を中心に作成された昭和五九年一一月六日付け供述調書においては、手形のジャンプの時など丙山との金銭的な関係は同社の実権を握っていた原告が相手であった旨の供述が得られた。

(二) 甲田の供述調書の作成

大宮警察署においては、甲田に対する任意の取調べも重ね、昭和五九年中に司法警察員が四通、翌六〇年四月には司法巡査が一通の供述調書を作成した。

甲田からは、同人が犯行に加わるに至った経緯、犯行の手口等を中心に供述を得たが、原告に関する具体的な供述としては、原告は、甲田が以前働いていたクラブ「ボンソワール」の経営者であり、北関東営業所には月一、二回位来て丙川と話をしていたこと、丙山の実質的な責任者が原告であるという話は後日聞いたこと、昭和五九年五月一八日にホームサウナ六〇台をバッタ売りして得た三〇〇万円のうち一〇〇万円は、丙川と甲田で原告のところに行き、丙川が原告に渡したが、これは坂下に振り出した五月二〇日前後の手形を落とすためであったこと等の供述が得られた。また、犯行の動機ないし共謀状況に関しては、昭和五九年一〇月二四日付け供述調書においては、「昭和五九年二月末頃丙川が自分に、どこかバッタできるところはないかと話をしてきたのが犯行の直接のきっかけであるが、丙山がバッタ売りしていることを聞いて丙川の気持ちが変わってしまったのか、丙川、原告、丁原らが相談して最初から坂下を食いつぶすつもりだったのかは自分には分からない。」との供述が得られただけだったが、同年一〇月二六日付け供述調書においては、「昭和五九年の一月か二月頃、丙川、原告、丁原の三名が前橋市内のロイヤルホテルにおいて、坂下の品物を取れるだけ取り、それを売って金を作り何か商売をやろうという相談をしたとのことであり、自分はその話を同年五月末頃になって聞いた。」との伝聞供述が得られた。

(三) 裏付け捜査

大宮警察署においては、戊田及び甲田の各供述の裏付け捜査として昭和六三年一二月までに次のような捜査を遂げた。

すなわち、まず、坂下の丙山からの受取手形の決済状況に関しては、戊田から不渡手形一二通の任意提出を受けて写しを作成するとともに、前橋信用金庫東支店からは同店の原告名義の預金口座の入出金状況に関する回答を得て、昭和五八年一二月二九日坂下から同口座に一九七万四二〇〇円の入金があったという事実を確認した。次に、被害品であるホームサウナの流通経路に関しては、製造元の秀朋産業における製造・出荷・納品状況の裏付け捜査、運送会社による運搬状況の裏付け捜査、処分先のディスカウントショップにおける処分状況の裏付け捜査をそれぞれ行った。また、坂下の北関東営業所に関しては、所在場所の確認を行うとともに、同営業所の事務員であった町田礼子から事情聴取をして当時の同営業所の活動状況等について供述調書を作成した。同女からは、代理店と称して丙山の丁原や原告がよく事務所に来て丙川と出歩いていたことを記憶している旨の供述を得た。

3  大宮警察署における丁原及び原告に対する任意の取調べ等

その後、本件の捜査は中断していたが、平成二年五月に至り、大宮警察署は捜査を再開し、埼玉県加須市内に居住していた丁原に対する任意の取調べを行い、更に同年六月には原告に対する任意の取調べを行うなどして、この頃次のような捜査を遂げた。

(一) 丁原の供述調書の作成

平成二年の五月末から六月上旬にかけて、大宮警察署司法警察員佐藤福栄(以下「佐藤刑事」という。)及び同署派遣埼玉県警察本部捜査第二課司法警察員斉藤太一(以下「斉藤刑事」という。)は、同署及び埼玉県加須警察署において丁原に対する任意の取調べを重ね、この間に五通の供述調書を作成した。

丁原からは、同人が犯行に加わるに至った経緯、犯行の手口等を中心に供述を得たが、丙山の代表取締役に丁原が就任した経緯の外に、原告に関する具体的な供述としては、原告と知り合ったのは、昭和五七年秋頃、丁原が前橋市内のスナック「サン」を買い取る際に原告がその仲介と手形の割引をしてくれたのがきっかけであること、丙川と面識が出来たのは、同人が前橋に引っ越してくる際原告に頼まれて手伝いに駆り出された時からであり、その後丙川も丙山の事務所によく来ていたので会って話をするようになったこと、丙川が坂下の北関東営業所を開設した頃には、既に丙川と原告がサウナ販売の話をしているのを聞いていたこと、自分が坂下の社員となる以前から原告は前橋市内の知人や友人にサウナを何台かずつ売っていたが、当時原告は一台二〇万円以下程度の値段で売っていたようであること、自分は丙川の下でバッタ売りをして、その代金を受け取る際丙山名義の領収証を発行していたが、この領収証は、原告が印刷して作成した用紙を北関東営業所の事務所に保管しておき、バッタ売りの都度丙川に起こしてもらっていたものであること、バッタ売りで得た金を丙川に渡した際、丙川からその中の一〇〇万円を原告に届けるように指示され、原告方にその金を届けたことが一度だけあったこと等の供述が得られた。

丙山の代表取締役に丁原が就任した経緯については、平成二年五月二八日付け供述調書においては、「昭和五八年六月頃知人の原告から、光ファイバーの製品を扱うことになったので役員にするから一緒にやろうと言われ、二つ返事でそれを引き受けたのがきっかけであり、役員就任の登記手続を行ったのも原告であって、自分が代表取締役にされたとは思わなかった。」との供述を得ていたが、平成二年六月四日付け供述調書においては、「昭和五八年六月頃原告から『丁原さんを俺の会社の役員にする。ホームサウナの販売をするから一緒にやって儲けよう。』などと言われて印鑑を貸したことがきっかけで、知らないうちに丙山の代表取締役に仕立て上げられてしまった。その後丙山の事務所に出入りするようになったが、この会社は名前だけのペーパーカンパニーで、営業活動は何もしていなかった。」との供述を得るに至った。更に、代表取締役丁原の名で丙山の手形等が発行されている件を中心に作成された平成二年六月七日付け供述調書においては、丙山の手形十数枚がサウナの代金として発行されている件について、これらの振出しに対する丁原自身の関与を全面的に否定する趣旨の供述を得るとともに、「そもそも自分は丙山の代表取締役就任を引き受けたことはなく、その旨の登記がなされた当時原告から『サウナを売りやすくするように俺の会社の役員にしてやるよ。』と言われて、自分も平の役員だったらいいだろうと思い、原告に印鑑や印鑑証明を渡してやったことはあったが、知らないうちに代表取締役に仕立て上げられてしまった。」との供述を得た。

また、丁原が犯行後逃亡した経緯に関して、「昭和五九年五月か六月頃原告と丙川から、今までに約手を何千万円も振り出しているのだからお前はもうどうしようもないといきなり言われた。」、「昭和五九年五月末頃犯行の発覚を既に予想した丙川は北関東営業所を閉鎖しており、自分と甲田は大宮市内の丙川のアパートに身を寄せていたが、丙川からは、『丙山の手形が不渡りになると大変なことになる。みんなお前の責任だからな。』と言われていた。」との供述も得られた。

なお、平成二年六月中にはホームサウナの処分先に関する丁原の供述の裏付け捜査として、処分先とされた青木建材の社長の青木敏雄からの事情聴取、同人の供述調書の作成も行われた。

(二) 原告の供述調書の作成

大宮警察署は、右のように丁原の供述調書を作成した後、原告に対しても任意の取調べを実施することにし、平成二年六月二一日佐藤刑事及び斉藤刑事が群馬県前橋東警察署において原告を取り調べ、同人の身上・経歴に関する供述調書を作成するとともに、本件に関しては次のような供述を得て、これを録取した供述調書を作成した。

まず、丙山に関して、原告は、「丙山は、知人で元銀行員の甲川秋夫が商店等の経理事務の代行業の会社を設立するということで、甲川を代表取締役、私と内妻の乙野花子を取締役として発足した会社であり、私の賃借していた前橋市《番地省略》の丁川ハイツ四〇五号室を事務所として甲川が営業を開始したが、ほとんど客が付かないまま休眠会社となってしまった。その後昭和五八年七月頃役員変更があって丁原が代表取締役になっているとのことだが、私は一切知らない。丙山がホームサウナの代金として坂下に振り出した何枚もの手形が不渡りになっているとのことだが、私は一切関与していない。丙山発足当時甲川が前橋信金東支店に当座預金を開設して取引を始めたことは知っているが、役員変更後のことは一切知らない。」と供述した。

次に、丙川及びホームサウナの取引に関して、原告は、「丙川とは昭和五七年頃知人を通じて知り合い、その後同五八年九月頃丙川が前橋市内に引っ越してくる際にはアパートの世話等をしてやった。当初丙川は前橋で水商売のコンサルタントとして商売を伸ばしたいと言っていたが、その後、前橋市石倉町の岩崎ビルに北関東営業所という事務所を開いてホームサウナの販売を始めた。この事務所には丙川に呼び出されて一度だけ行ったことがあるが、この時はその事務所で扱っているセラミック商品(自動車の凍結防止機)を売ってくれと頼まれただけだった。丙川が丁原や甲田らとサウナの販売を行っていたことは知っているが、販売方法等の具体的なことは一切知らなかった。昭和五八年の八月か九月に丙川から韓国製のホームサウナを一台二〇万円で五台仕入れ、前橋市内の知人に一台約三〇万円で売ったことはあるが、それ以外にはサウナの販売、仲介等に関わったことは一切ない。」と供述した。

更に、原告は、「昭和五九年五月頃丁原を介して丙川から現金一〇〇万円を受け取っているが、これは、その頃までに自分が丙川に貸した合計約二〇〇万円の金の一部返済として受け取ったものである。」、「同年初め頃に電話で呼び出されて前橋市内のロイヤルホテルの喫茶店で丙川と会ったこともある。この時は、丙川から、新潟に良いスポンサーがいるので前橋市内でゲーム喫茶を開くことのできる場所を探してくれないかという話があったが、自分は丙川を信用していなかったので、その場しのぎの返事をして短い時間で別れた。」などと供述した。

4  丙川の逮捕と浦和地方検察庁への事件送致

(一) 丙川の逮捕

大宮警察署は、丙川について、同人が甲田、丁原及び原告と共謀して、昭和五九年五月一七日頃から同年六月四日頃までの間に八回にわたって坂下のため預かり保管中のホームサウナ合計二一四台(時価三九五九万円相当)を廉売処分したという業務上横領罪の嫌疑で逮捕状を得ていたが、平成二年九月二〇日、長野県諏訪警察署司法警察員が同署において右逮捕状に基づき丙川を逮捕し、同日、同人を大宮警察署へ同署司法警察員が引致した。

(二) 送検前の取調べ

丙川の引致を受けた大宮警察署においては、斉藤刑事が丙川に対する取調べを担当した。

斉藤刑事は、浦和地方検察庁に身柄を送致する前に丙川を取り調べ、同人の身上・経歴並びに犯行に至る経緯の概要について平成二年九月二一日付け供述調書を作成した。

犯行に至る経緯の概要として丙川から得た供述は、「戊田は坂下がサイドビジネスとして始めたホームサウナの販売業務のために私を北関東営業所長に就かせてくれた。私は前橋市内の丙山(代表取締役丁原)を代理店として開拓し、ホームサウナの卸販売を始めた。代金は三か月位の約束手形を貰って坂下本社に受取手形として入金していたのだが、昭和五九年二月頃の額面三〇〇万円の手形と同年五月頃の額面一〇〇万円の手形に関して、丙山の丁原社長から、『手形の決済ができない。何とかお願いします。』と頼み込まれてしまった。私は、既に何百台ものサウナを納品している丙山が不渡りを出して倒産しては大変なことだと思い、甲田と相談の上在庫品のサウナをバッタ売りして金を作り、手形を決済した。これがきっかけとなって穴埋めのために次から次へとサウナをバッタ売りして金を作るようになってしまった。」というものであった。

(三) 事件送致と浦和地方検察庁における主任検察官の決定

平成二年九月二二日、大宮警察署から丙川に対する業務上横領被疑事件の身柄送致を受けた浦和地方検察庁においては、休日の勾留当番の検察官が弁解録取の上浦和地方裁判所に勾留請求し、勾留状の発布を得た。

同月二五日、乙山検事が本件の主任検事を命ぜられ、以後本件の捜査処理を担当することになった。送致された一件記録を検討した結果、乙山検事は本件について、当初から商品を廉売する目的で戊田を騙し、計画的に行ったのであれば、業務上横領ではなく、いわゆる取込み詐欺を構成する余地があると考え、大宮警察署の担当者に対し、丙川を取り調べるに当たっては右の点を吟味し、共犯の疑いが強い原告、丁原、甲田についても更に捜査を尽くして本件の真相を明らかにすること、特に原告については、再度戊田ら関係者から事情聴取し、丙山の経営実態を明らかにすること等を指示した。

5  原告及び丁原の逮捕に至る捜査の経緯

大宮警察署及び浦和地方検察庁は、平成二年九月二二日に右のとおり丙川を勾留した後、同年一〇月一日に浦和地方裁判所裁判官から丙川の勾留期間を同月一一日まで延長する旨の決定を得るまでの間に、次のような捜査を遂げた。

(一) 丙川の取調べと供述調書の作成等

大宮警察署においては、斉藤刑事が丙川に対する取調べを重ね、平成二年九月二五日から同月三〇日までの間に四通の供述調書を作成するとともに、犯行を共謀した場所が群馬県前橋市内の群馬ロイヤルホテルであるとの供述が得られたことから、同月二七日には同署派遣埼玉県警察本部捜査第二課司法警察員三逵信幸(以下「三逵刑事」という。)が同ホテルの実況見分を行い、後日実況見分調書を作成した。

この間に丙川が供述した犯行に至る経緯、共謀の状況等は、次のとおりである。

「昭和五八年八月頃戊田から、坂下のサイドビジネスのサウナ販売を丙川さんに任せるから坂下に入ってもらいたいとの話があり、私も、そこまで信用してくれるのならと思い、これを承諾して坂下の社員となった。私は戊田と相談し、前橋市内の知人で丙山代表取締役の原告が地元で顔が広いので、この会社を販売代理店にすれば安定した出荷販売が可能であることなどを理由に、前橋市内に北関東営業所を開設し、私が所長に納まることになった。」

「私が原告に『今度俺のところでホームサウナの販売をやるから、あんたの会社も代理店として商売してみないか。』と言って誘ったところ、原告から是非やらせてくれないかという返事があった。そこで私は、戊田にこの話を持ち掛け、丙山と取引すれば商品も大量に売れて儲けが出ますなどと言って説得すると、戊田も、所長が調査をしてやるというのならよいでしょうということになり、丙山を代理店とすることの決裁を得ることができた。丙山を代理店として取引を始めるにあたり、原告から群馬ロイヤルホテルの一階ロビー喫茶店で丁原を紹介された。原告の話では『自分は水商売の方が忙しいのでこの丁原を丙山の代取にした。丁原は証券会社に勤めたことがあって営業活動が上手であり、群馬では顔の広い男だから、是非代理店として取引をやってくれないか。』とのことだった。ホームサウナの仕入販売方法は、所長の私が本社の戊田に電話を入れて仕入注文をし、戊田がこれを承諾すると本社から秀朋産業に注文書が送られて発注となる。そして、私が運送屋を頼んで秀朋産業の工場で商品引取りを行い、北関東営業所の事務所の隣室(約五〇台が保管可能)や野菜等の出荷場(約二〇〇台が保管可能)に保管したり、卸販売先の丙山に直送させたりしていた。」

「今回の一連の犯行は、丙山振出しの額面約二九七万五〇〇〇円の約束手形の決済につまずいたことがきっかけとなった。この手形の決済期日である昭和五八年一二月三一日の一、二日前になって原告と丁原が来て、入るはずの金が入金にならないので、どうしても決済ができないと言い出したのである。私が戊田に相談すると、戊田も怒っていたが、坂下で立替決済しておくからジャンプ手形を貰うようにとのことだったので、確か、昭和五九年一月初旬頃ジャンプ手形として幾分利子の付いた手形を貰い、坂下本社に届けた。これでこの時は丸く収まったのだが、ジャンプ手形の決済が近づいた同年二月五日前後頃、原告と丁原が事務所に来て、また、資金繰りがどうしてもつかないので決済ができないと言い出した。私は、こんな話を事務所でするのはまずいと考え、原告を連れて群馬ロイヤルホテル内の喫茶店に行き、話を聞いた。私が、原告に、『どうして決済金ができないんだ。二回目だし、ジャンプはないよ。』とやや激しく言うと、原告は、『そんな決済金なら、丙川さんの方でどんどん品物を回してくれれば、バッタしてお金なんかいくらだって出来るから、品物を回してくれ。』などと言ってきた。この時、私は、『もう駄目だ。バッタ売りでお金を作って決済するしかない。』と決心し、原告に対し、『分かった。それなら品物を回すから、顔の広いところでどこかに処分し、お金を作って持って来い。』と言うと、原告は、『分かった。金は作る。』と答えた。私はその場で、『そっちはそっちでやれ。こっちはこっちでやるから。』という趣旨のことを言って原告と別れた。私は戻ってから腹心の部下である甲田にこの経緯を話し、仲間として一緒にやることにした。原告もやはり腹心の部下である丁原に相談したはずであり、このようにして本件の謀議が成立したのである。手形の決済の方は、決済日の当日だったと思うが原告に現金三〇〇万円を見せてもらい確認の上入金させ、戊田に手形が落ちる旨報告した」

「私の被疑事実のうち昭和五九年五月一八日のバッタ売りに供した商品のサウナ六〇台は、同年四月一六日付けの注文書により発注したサウナ一〇〇台の一部であると思う。このバッタ売りの代金として現金三〇〇万円を受け取ったが、同年五月一九日の夕刻に私と丁原と甲田の三人で原告の自宅に行き、この中から一〇〇万円を原告に渡した。これは、その前日頃原告から、『どうしてもお金が必要だから都合してくれないか。一〇〇万円あれば手形が落とせるから頼む。』と言われていたので持参したものである。」

なお、乙山検事も平成二年九月二九日に浦和地方検察庁において丙川を取り調べたが、この時は供述調書の作成には至らなかった。

(二) 戊田の供述調書の作成等

大宮警察署においては、平成二年九月二六日に三逵刑事が戊田から事情聴取を行い、坂下の丙山との最初の取引に関する供述を得て同日付け供述調書を作成した。

戊田は、まず、坂下のサウナ売上帳及び受取手形記入帳(該当箇所の写しが調書末尾に添付された。)の記載をもとに、坂下の丙山との最初の取引が、昭和五八年九月二五日に、見本品という趣旨も兼ねてサウナを一五台(一台一六万五〇〇〇円)、同年一〇月五日にカタログ一〇〇〇部(一部五〇〇円)を各販売した合計二九七万五〇〇〇円の取引であること、その代金としては、同年一〇月七日に丙山振出しの三枚の手形を受け取っているが、これは確か丙川が持参したものであることを供述した。

戊田は、次に、右各手形のジャンプの経緯につき、次のように供述した。

「右各手形の支払期日は早い順に昭和五八年一二月三一日、同五九年一月五日、同月一〇日となっていたが、昭和五八年一二月二九日に、確か丙川から電話があり、『原告が宝石商に対する債権を回収できなくなって金がない。初めての商売で誠に悪いが、延期して一か月ジャンプしてくれませんか。今回の決済資金は坂下で都合をつけてもらえませんか。』と言ってきた。私は丙川に、『最初の商売からこんなことではおかしい。相手の資金状況をよく調べておいて下さい。』とは言ったが、年末のことでもあり、何とか面倒を見てあげなくてはと思い、その日に、原告の口座に一九七万四二〇〇円を振込送金しておいた。これによって一二月三一日と一月五日の手形が助かった。」

「一月一〇日の手形の決済分については、義姉の野田初江から一〇〇万円を借りて昭和五九年一月六日に原告に手渡している。その日は、北関東営業所の新年会に出るために一〇〇万円を持参して出向いたところ、丙川が原告と約束していると言うので丙川と二人で群馬ロイヤルホテルに行き喫茶室でコーヒーを飲んでいると、原告が現れ、私と顔を合わせるなり『この前はどうもすいませんでした、わがままばかり言ってしまって』と言い、『これで必ず二月一〇日には決済します。本当にすみませんでした。』と言って一枚の手形を示してきた。それは、額面三〇〇万円、期日二月一〇日の丙山振出しの手形であったが、大事な収入印紙が貼っていなかったので、大事な手形に収入印紙が貼っていないとはとんでもないことだと文句を言うと、原告は『すいません。正月だったもので』と弁解し、『後から間違いなく印紙を貼りますから。』と言ってその手形を引っ込めた。なお、額面が二九七万四二〇〇円より多額の三〇〇万円であった点については、迷惑料及び金利分と理解し、私からは何も言わなかった。私は原告に一〇〇万円を渡し、『これで必ず一月一〇日分を落として下さいよ。』と言うと、原告は、『はい。実行します。』と言ってこれを受け取った。この日の会合はこれで終わり、手形については、丙川に印紙を貼って至急私のところに届けるよう指示しておき、確か翌日の一月七日頃印紙を貼って持って来たと思う。」

右のうち、昭和五九年一月六日のロイヤルホテルでの会合の件に関して、戊田は、この時のコーヒー代金の領収書がとってあったとして、その写しを三逵刑事に提出した(調書末尾に添付された。)。

なお、平成二年九月二九日には戊田から再度不渡手形一二通の任意提出を受け、これを領置した。

(三) その他の捜査

平成二年九月二六日には、大宮警察署司法警察員が丁原から同人方において日記帳代わりの日程表六枚の任意提出を受け、これを領置した。このうちの一枚である昭和五九年五月の日程表の同月一九日の欄には、「丙川から甲野へ100万受取って自宅へ持参す。」との記載があった。

同月二七日には、三逵刑事が丁原のホームサウナ処分先の一つである青木建材の社長青木敏雄から同人宅において事情聴取し、同日付け供述調書を作成するとともに、処分状況を裏付ける昭和五九年四月二四日付け領収証の任意提出を受け、これを領置している。

(四) 原告及び丁原の逮捕

以上の捜査の結果、本件は業務上横領というよりはむしろ、丙川、原告、丁原及び甲田による計画的な取込み詐欺事犯であるとの嫌疑が強まったことから、乙山検事と大宮警察署の担当者が協議の上、原告及び丁原についても強制捜査に踏み切ることにし、平成二年一〇月二日、大宮警察署は詐欺罪の嫌疑により原告及び丁原を通常逮捕するとともに各被疑者方に対する捜索を実施した。

なお、当日、原告方においては甲野花子から約束手形等の任意提出を受けてこれらを領置し、丁原方においては藤沢三代子からホームサウナのパンフレット等と小物入れの各任意提出を受けてこれらを領置した。このうちホームサウナのパンフレットには、「製造発売元株式会社坂下製作所」とあるものと、「技術指導株式会社坂下製作所」「総発売元株式会社丙山」とあるものの二種類があった。

6  丙川の起訴並びに原告及び丁原の勾留期間延長に至る捜査の経過

平成二年一〇月二日に右のとおり原告及び丁原を逮捕した後、大宮警察署及び浦和地方検察庁は次のような捜査を遂げ、同月一一日には乙山検事が丙川を詐欺罪で起訴するに至った。

(一) 原告及び丁原の送検等

原告及び丁原を逮捕した当日、大宮警察署においては、原告につき同人の身上・経歴に関する供述調書を作成する一方で、丁原については佐藤刑事が取調べを行い、丁原の身上・経歴とともに、同人が犯行に加わった経緯の概要等について、原告に勧められて原告がやっていた丙山の役員になり、その後、丙川に勧められて坂下の北関東営業所の社員になるなどしてサウナの販売に関わるようになったこと、丙山の発行した約束手形をサウナの代金支払に充てていたが、同社は最初から資金のない会社であったため、決済資金の金策に困り、事実上手形を扱っていた原告からの持ちかけで、丙川、原告、甲田と自分の四人で相談し、戊田を騙してサウナをどんどん仕入れバッタ売りしてしまうという犯行に及んだこと、バッタ売りした代金のほとんどは丙川と原告が取ったが、自分も分け前を貰っているなどの供述を得て供述調書を作成した。

翌日の平成二年一〇月三日、大宮警察署から原告及び丁原に対する詐欺被疑事件の身柄送致を受けた浦和地方検察庁においては、主任検事である乙山検事が両名の弁解録取手続を行った上で浦和地方裁判所に勾留請求し、勾留状の発布を得た。

右弁解録取手続において、乙山検事は、原告及び丁原から次のような供述を得て、各供述調書を作成した。

すなわち、原告は乙山検事に対し、「被疑事実は全く身に覚えがない。丙山の代表取締役を丁原に譲った後は、同社の取引には一切関与していないし、同社のゴム印、手形帳等は全部丁原に渡してあった。昭和五八年初め頃、丙川が仕入れた韓国産のホームサウナを個人的に買い受けたことはあるが、丙山が秀朋産業のサウナを坂下から仕入れて販売するという話は全く知らなかった。」と供述したのに対し、丁原は同検事に対し、自己の被疑事実を認めた上で、「丙山の実権を握っていたのは原告で、同社の手形帳、ゴム印等も全部原告が持っていた。昭和五八年夏頃から、坂下が秀朋産業から仕入れたホームサウナを丙山が買い受けて他に販売することになった。最初からバッタ売りをするつもりではなかったのだが、資金調達のために、原告に言われてバッタ先を見つけ、バッタ売りをしていた。いよいよ手形決済に行き詰まり、昭和五八年一二月末の手形について丙川に泣きつき、戊田に頼んで手形をジャンプしてもらったのだが、ジャンプしてもらった二月頃の手形も落とせないような状態になり、昭和五九年二月頃から本格的にバッタ売りをするようになった。確かその頃、甲田のいる前で丙川から、『これからバッタをやる。いやなら抜けろ。』と言われた。その場に原告はいなかったが、その後も原告は丙川や私と何回も会っており、私たちがバッタ売りをしていたことは十分承知していたはずだし、金も取っている。」と供述した。

(二) 丙川の取調べと供述調書の作成等

大宮警察署においては、斉藤刑事が丙川に対する取調べを更に重ね、平成二年一〇月二日から同月九日までの間に五通の供述調書を作成した。そして、この間の同月七日には、浦和地方検察庁において乙山検事が丙川を取り調べ、供述調書を作成した。

まず、原告及び丁原の逮捕当日の平成二年一〇月二日、斉藤刑事は、既に丙川から供述を得て供述調書に録取しておいた昭和五九年二月五日前後のロイヤルホテルにおける共謀の状況並びに同年五月一九日の原告への利得金一〇〇万円の分配状況について、丙川から更に詳細な供述を得て供述調書を作成した。この中で丙川は、共謀の状況については、ロイヤルホテルの喫茶店で原告と話をした時には丁原もそばにいて話を聞いていたので、その内容は全部知っていること、この時の話し合いは、原告が口火を切って話を持ち掛けてきたので、自分も、「サウナの安売りでお金を互いに作ってドロンするか、別会社を作ってまたみんなでやればいいやないか。俺の方でサウナは引くから、それを原告の方へも回すから、金を作ればいいや。自分の方も作るから」などと言って話が具体化したこと等を供述し、利得金の分配状況については、昭和五九年五月一八日にバッタ売りをして翌一九日にその代金として現金三〇〇万円と小切手二〇〇万円の計五〇〇万円を甲田を介して手に入れた自分は、原告の自宅に現金一〇〇万円を持っていくので一緒に行こうと丁原及び甲田の二人を誘って三人で原告の自宅に行ったこと、前日の夜頃、原告から電話があり、今台湾だか病院にいるなどという話があった後、「実は二〇日に手形の決済ができないので一〇〇万円回してくれ。頼むよ。」などと言われて、分かったと答えておいたこと、当日の午前中には丁原からも「一〇〇万円間違いなく回してくれるようにと原告から電話があったのでお願いします。」と駄目押しをされていたこと等を供述した。

ところが、平成二年一〇月四日には、右のうちの利得金の分配状況に関して、斉藤刑事は丙川から利得金を分配した日にちを訂正する旨の申立てを受け、改めて供述調書を作成した。この中では丙川は、昭和五九年五月一八日に北関東営業所の事務所で甲田がバッタ売りから戻ってくるのを待っていると、一緒にいた丁原に原告から電話があり、電話の後で丁原から、原告がお金を間違いなく回してくれと言っていた旨伝えられたこと、その日の夕方、甲田がバッタ売りの代金三〇〇万円を持ってきたので、三人で原告の自宅に行き、午後七時頃自分か丁原が原告に一〇〇万円を渡したこと等を供述した。

続いて平成二年一〇月五日には、斉藤刑事は丙川から戊田を欺罔した手口について供述を得て供述調書を作成した。

そして、同月七日には、乙山検事が自ら丙川を取り調べ、同日付け供述調書を作成した。このうち犯行に至る経緯、共謀の状況等についての供述は次のとおりである。

「私は坂下の取締役兼北関東営業所長として、昭和五八年一〇月に同営業所が開設されてからホームサウナの卸販売を行ってきた。坂下が仕入れたサウナは、丙山がこれを買い取って他に販売することになっていた。原告とは昭和五七年頃友人の紹介で知り合い、昭和五八年二月頃には前橋市内のアパートの世話をしてもらった。原告は元国鉄職員で、退職後は前橋市内で高級クラブ等を経営しており、地元では顔が広かったので、私は戊田に、前橋市内に営業所を作って丙山と代理店契約を結ぶよう助言したのである。もっとも、代理店契約を結ぶ前にどんどん商品が流れたので、結局正式な代理店契約には至らなかった。卸売価格については、昭和五八年八月に最初の取引を始める前に原告から仕切値を決めてくれという話があったので、戊田、金子取締役と私とで価格を決め、例えば、サウナ「健康」は仕入価格一三万円、代理店価格一八万五〇〇〇円、一般市場価格四五万円などと決めておいた。この価格は、取決めをした翌日頃、原告の事務所に価格一覧表とパンフレットを持参して丁原もいる席で原告に渡したので、原告も丁原も承知していた。」

「丙山が最初の手形を決済できないので、戊田が肩代わりして手形を落としたのに、これをジャンプした支払期日昭和五九年二月一〇日の三〇〇万円の手形についても、同月初め頃になって原告が金ができないと泣きついてきたのである。具体的には、昭和五九年二月初め頃、群馬ロイヤルホテルの一階ロビーラウンジで私と原告、丁原の三人で会った時、手形の決済が難しいという話が出て、原告は、『丙川さんの方でどんどん品物を回してくれれば、バッタしてお金はいくらでもできますよ。品物を回してくださいよ。』と言ってきた。私は、私の所の営業部員たちが『どうも丙山はバッタをしているようだ。価格がめちゃくちゃで出回っている。』などと話をしていたのを思い出し、原告にこれまでもバッタをしていたのかと尋ねたところ、原告は、『そうだ。なかなか売れなくてバッタをしていた。』と事実を認めた。私は、このまま放っておいても二月一〇日に不渡りになることは目に見えているので、この際思い切って、バッタ売りで金を作るよりほかないと考え、原告に対し、『そうか分かった。それなら品物を回すからバッタ売りして金を作れ。処分先は任せる。』と言うと、原告は、『分かった。金は作る。』と答え、そばで聞いていた丁原も何も言わなかったがうなずいて、バッタ売りをすることを承知した。同年二月以降私は戊田に対し、数度にわたってまとまった発注依頼をしているが、これらはいずれも、バッタ売りをする商品を入手するために戊田を欺いて秀朋産業に発注させたものであり、同人の発注に基づき秀朋産業から引渡しを受けた商品は全て投売りしている。こうしたバッタ売りで得た金で、同年二月一〇日の三〇〇万円、その次の同年五月三一日の一〇〇万円の各手形は落としたのだが、同年六月四日頃、バッタ売りを戊田に察知されたため、私たちは逃亡したのである。」

乙山検事による取調べの翌日の平成二年一〇月八日には、斉藤刑事が関係資料を示して丙川を取り調べ、同人から本件犯行の経過について日にち等を特定する供述を得て供述調書を作成した。

ところで、翌九日には、ロイヤルホテルにおける共謀に関して、斉藤刑事は丙川から共謀の日にちを訂正する旨の申立てを受け、改めて供述調書を作成した。この中で丙川は、「三〇〇万円の手形の支払期日が来るので原告と丁原を呼び、『あんたら、一〇日決済期日の手形を決済できるのか。』と詰め寄ったところ、原告が『そんなものどんどん品物を回してくれればバッタしていくらでもお金はできるよ。品物を回してくれさえすれば決済できる。』と言い出したことから今回の取込み詐欺の話になったというのはそのとおりである。この相談を受けて、私は、入荷したサウナをすぐ原告の方に回して金を作らせることにしたのだが、この時原告の方に回したサウナは、秀朋産業からの納品書等を見せてもらって分かったのだが、昭和五九年一月二七日付けで秀朋産業から仕入れた五〇台のサウナだったのである。このことを踏まえてよく思い出してみたところ、ロイヤルホテルで謀議をしたのは、その数日前の昭和五九年一月の二四日から二六日の間頃だったという覚えがある。」と供述した。

なお、平成二年一〇月八日には、大宮警察署において、丙川から「二回目の謀議」についての上申書の提出を受けた。その内容は、昭和五九年二月の一五日から二〇日の間頃に群馬ロイヤルホテルのロビーラウンジで原告と二回目の謀議をしたというものであり、具体的には、「私が原告に、丁原のことについて、『大学を出て証券会社に勤めていて、セールスとしては優秀な男だと言って紹介してくれたけど、何にも力がないではないか。』と問いただしたところ、原告は『丁原は俺に借金だらけで俺のいうことは何でも言いなりだから、丙山はあいつの責任で会社を倒産させ、いくらか金をくれて逃がすから俺に任せてくれ。あとは別会社を作って何か商売をやろう。』と相談してきた。私はそのことについては承知したが、まだ丁原に逃げられては困るし、原告と丁原を一緒にしておくと品物のサウナを取られてしまうとも思い、原告に承諾してもらって丁原を北関東営業所の社員として使った。」との記述がなされていた。

(三) 丁原の取調べと供述調書の作成

大宮警察署においては、逮捕当日から引き続き佐藤刑事が丁原に対する取調べを重ね、平成二年一〇月五日から同月一一日までの間に四通の供述調書を作成した。そして、この間の同月九日には、浦和地方検察庁において乙山検事が丁原を取り調べ、供述調書を作成した。

まず、佐藤刑事は、本件犯行によりホームサウナを騙取した昭和五九年五月一八日の行動の経過を中心に丁原から供述を得て、平成二年一〇月五日付け供述調書を作成した。この中で丁原は、サウナ六〇台をロジャースにバッタ売りして三〇〇万円を手に入れた昭和五九年五月一八日の夕方、丙川から現金一〇〇万円を渡され、これを原告に渡して来いと言われて原告の自宅にその金を届けに行ったことを供述するとともに、原告に一〇〇万円を渡した状況を略図に書いて説明した(調書末尾に添付された。)。そして、その経緯に関しては、その前日頃行きつけの焼肉屋で原告と会った時に、丙川の所に三〇〇万円の大金が入ることを原告に告げて、「あんたも取り分を貰った方がいいんじゃないか。」とけしかけるようなことを言っておいたので、原告から丙川に電話か何かがあり、原告にも分け前が渡されることになったのだと思うと供述した。ただ、共謀の状況に関しては、自分たち四人は、ロイヤルホテルの一階や上野の坂下の本社近くの喫茶店において相談を済ませていたので、一連の犯行を行うことは承知していたと供述するにとどまった。

その後、共謀の状況等について丁原から具体的な供述を得た佐藤刑事は、平成二年一〇月八日付け供述調書を作成した。この中で丁原は、一連のバッタ売りについての最初の話し合いが群馬ロイヤルホテルで持たれたのは、昭和五八年一二月末頃から同五九年一月下旬頃までの間のことだったと思うとした上で、この時原告と丙川の間ではジャンプ手形の決済ができるかどうかという話になり、原告の方から三〇〇万円の決済ができないと言い出したため、この決済資金の工面について丙川と原告が中心になって相談した結果、サウナをバッタ売りして金を作るという話になったこと、この席で原告から、三〇〇万円の資金作りのためにどこかサウナのバッタ先を探してくれと頼まれたこと、その後手形の支払期日が迫ってきたこともあって、原告から、どこでもよいから大量にさばけるところを見つけてこいと言われたため、自分も必死になってバッタ先を探し、前橋市内の青木敏雄という人をバッタ先として見つけてきて、それまでに仕入れていたサウナ約一〇〇台を処分し、代金として三五〇万円から四〇〇万円位の金を手に入れて原告に渡したこと等を供述した。そして、その後の経過として、昭和五九年三月一日付けで藤沢則吉という偽名を使って坂下に入社したのは、丙川から、「原告はお前の手形を切って支払をしているから、最後はお前が全責任をかぶせられるぞ。原告に付いていてもしょうがないから、俺の所に来いや。」と言われて入社を勧められたからであること、入社後、丙川、甲田と自分の三人で坂下の本社に顔を出しに行き、三人で本社近くの喫茶店で話をすることが何回かあったのだが、昭和五九年四月初旬頃そうした席で丙川から、「いついつバッタをやるぞ。これから本格的にやるから丁原びびるんじゃないぞ。」というはっきりした話があり、丙川が更に「バッタが嫌ならお前本社勤めをしろや。」と言って迫ってきたので、自分も覚悟を決めて一緒にやる決意をし、その後これを実行に移していったこと等を供述した。

これに続いて、平成二年一〇月九日には、乙山検事が自ら丁原を取り調べ、犯行に至る経緯、共謀の状況等について同人から供述を得て同日付け供述調書を作成した。

丁原は、まず、原告と知り合った経緯について、昭和五六年頃前橋市内のスナックを買い取った際に代金支払のために振り出したマル専手形が原告に回ったことから知り合うようになり、自分がこの手形を落とせなかったため、原告には当初から頭の上がらない関係となり、前橋市内のキャバレーで原告のために働いたこともあったと供述した上で、丙山の代表取締役に就任した経緯等について、「昭和五八年六月頃原告から、『乙野を下ろしてお前を丙山の代表取締役にするぞ。』と言われ、どうせ名前だけ貸すのだからと思い、これを承諾した。丙山の実態は私には分からなかったが、原告が丙山や関越物産等の会社の実権を握っていることは以前から知っていた。私が代表取締役に就任した旨の登記がなされたのは昭和五八年七月一二日のようだが、確かにその頃原告に印鑑証明等を渡した覚えがある。しかし、その後も会社印、代表者印、手形帳等の会社経営に必要なものは一切原告が持っていた。原告は当初、光ファイバーの販売をするなどと言っていたが、その後ホームサウナの販売をするという話があった。丙山が坂下からホームサウナを仕入れて販売していることを具体的に知ったのは昭和五八年の暮れ頃だった。ただ、それ以前にも原告の使いで北関東営業所の丙川の元に行ったりしていたので、丙山が坂下と取引していることは薄々分かっていた。」などと供述した。

丁原は、次に、最初のバッタ売りをした経緯について、「昭和五八年一二月二〇日過ぎ頃だったと思うが、原告にお前も来いと言われて群馬ロイヤルホテルに付いて行き、一階のロビーで丙川と会ったことがある。丙川と原告がサウナの支払手形の決済のことで真剣にやりとりをした結果、手形決済の金を作るために、丙川がサウナを仕入れ、丙山がこれをバッタ売りして金に代えるという話になり、原告が私に向かって、『とにかく三〇〇万か三五〇万の金が要る。一〇〇台分だ。何とか都合をつけてくれ。』と切羽詰まった調子で頼んできたので、私も、原告からの頼みでは嫌とはいえずにこれを承諾した。そして、バッタ関係もやっている青木商店を思い出したので、社長の青木敏雄に泣きついて、一〇〇台を三五〇万円で引き取ってもらうことにし、昭和五九年一月末頃何回かに分けて一〇〇台を同商店に運び込み、同月三〇日頃青木から三五〇万円を受け取って、その日のうちにこれを原告に届けた。ただ、青木の希望で領収証は四〇〇万円で切ったと思う。」と供述した。

丁原は、更に、その後の経過について、「その後も、丙川が発注したサウナを丙山が買い取ってこれをバッタ売りするということを繰り返していたが、丙川の勧めに従い、昭和五九年三月一日付けで藤沢の偽名を使って坂下に入社して北関東営業所の従業員となった。同年四月初め頃だったと思うが、坂下の本社近くの喫茶店で丙川が私と甲田を前にして、『これからどんどんバッタをやる。びびるんじゃないよ。嫌なら本社へ行け。前橋に残るんだったら俺と一緒にバッタをやろう。』と言ってきた。私は、今更抜けられないと思い、また金も欲しかったので、これを承知し、甲田もこれに同意した。その場に原告は居なかったが、丙川は原告と度々会っていたし、同年五月一八日頃には一〇〇台を売却処分した五〇〇万円のうちの一〇〇万円を私が原告に届けているので、原告も十分承知していたと思う。同年六月四日にバッタ売りのことが戊田に分かり、外国へ逃亡しようという話が出た時も、私は原告から『心配するな。お前の家には毎月二〇万ずつ振り込んでやる。』と言われている。」などと供述した。

乙山検事による取調べの翌日の平成二年一〇月一〇日には、同月二日に丁原方から押収した領収証を示すなどして佐藤刑事が丁原を取り調べ、同人からロイヤルホテルにおける会合の日にちを特定する供述を得て供述調書を作成した。すなわち、丁原は、「ロイヤルホテルでの話し合いを受けて私は青木敏雄に一〇〇台をバッタ売りしたのだが、お示しの領収証のとおり、私が青木から現金を受け取ったのは昭和五九年一月三〇日であり、サウナを三、四回に分けて運び込むのに四、五日はかかったと思うので、こうしたことから逆に考えると、ロイヤルホテルで話し合いをしたのは同月の二四日から二五日の前後だったと思う。」と供述した。

平成二年一〇月一一日には、佐藤刑事が更に関係資料を示して丁原を取り調べ、同人から本件犯行等の経過について具体的な供述を得て供述調書を作成したが、この中でも丁原は、昭和五九年五月一八日にバッタ売りをした代金のうちの一〇〇万円を丙川から渡されて原告の自宅に届けたことを重ねて供述した。

(四) 原告の取調べと供述調書の作成

大宮警察署においては、三逵刑事が原告に対する取調べを重ね、平成二年一〇月八日から同月一一日までの間に原告から次のような供述を得て、四通の供述調書を作成した。

原告は、まず、丙川、丁原らと知り合った経緯について、「丙川とは昭和五七年頃知人の紹介で知り合い、同五八年にかけて接触を重ねるうちに次第に親しくなった。昭和五八年の五月か六月頃、上野の風月堂という店で丙川と会ったことがあるが、私が店に着くと丙川は別の人と座って話をしていた。私は紹介されることもなく別の席に座っていたのだが、今にして思えば、丙川が話をしていた相手は坂下の戊田だったと思う。」「丁原とは昭和五四年後半頃知り合ったのだが、私が知人を介して貸した金について、丁原は期日が来ても返済をすることができず、手形のジャンプを繰り返して今に至っている。」などと供述した。

原告は、次に、丙山の設立及びその後の代表取締役の変遷の経緯について、「丙山設立の半年位前から、日東興業ノーザン赤城ゴルフ場の営業マンだった甲川秋夫との間で、甲川が元銀行員で帳簿関係に詳しいということから、個人商店の経理事務を代行する会社を作ろうかという話になり、甲川が『会社を作れば、自分は日動火災の幹部に知り合いがいるので損害保険の代理店契約を取ることもできる。』などと言って私に協力方を求めてきたので、私も登記費用位なら融資してもよいと思い、登記費用の三七万円位を私が出して甲川が登記手続を執り、昭和五七年七月一三日に丙山の設立登記がなされた。事務所にした丁川ハイツ四〇五号室は以前に私が購入したマンションで、当時事実上空室となっていた。甲川が前面に出てやりたいということだったので、代表取締役には同人がなり、私と当時は内妻だった乙野花子、そして私と甲川の共通の知人二名の計四名が平取締役ということになった。前橋信金東支店の当座開設も社印、ゴム印等の作成も甲川がやったのでその経過は私には分からないが、手形帳、社印、ゴム印等は当時私が甲川から保管を任されていた。その後、噂では甲川はゴルフ場の方の仕事で不手際をしたそうで、丙山の代表取締役も辞任してしまったので、同人から勧められて損保の資格を取っておいた内妻の乙野花子が代わって代表取締役となったのだが、完全に休眠会社になってしまった。」「昭和五八年六月頃、丁原がひょっこり自宅に現れ、『今、健康器具の販売をやっている。何とか仕事が伸びそうだ。』などと話をして血圧計を置いていった。その後話をするうちに、丁原から『注文をくれる人がいるんだけど、個人だとなかなかローンが組めなくて難しいんですよ。』という話が出たので、私は丙山のことを思い出して丁原に『それなら会社にしてやってみたらいいよ。ちょうど休眠会社がある。丁原がやるつもりなら印鑑と印鑑証明を取ってこい。』と言ったのである。こうして昭和五八年七月一二日に丙山の代表取締役を丁原にする旨の役員変更登記がなされた。その後丁原が丙山で行った仕事の内容は同人から聞いていないので分からないが、手形帳等は引き続き私が保管しており、チェックライター等も自宅に置いてあった。」などと供述した。

原告は、更に、ホームサウナ等をめぐっての丙川との接触の経過について、「昭和五七年暮れ頃から同五八年一月頃までの間に丙川と韓国で会った時に丙川が取締役を務める会社のあるビルを案内してもらったことがあるが、その際に丙川から同ビルの地下商店街の一角に陳列されていたホームサウナを見せられて、『これを日本で売れば必ず儲かりますよ。日本で売ってくれませんか。』という話を持ち掛けられた。その後、私の店に来る人たちの数人にホームサウナを勧めてみたところ、欲しいという人が何人かいたので丙川に五台注文し、一台一五万円から三〇万円の値段で売って代金は全て丙川に渡した。」「昭和五八年の夏頃丙川から同人がホームサウナを韓国から日本に輸出する計画を持っていることを聞くようになった。具体的には、日本からセラミックヒーターを輸入して韓国でホームサウナを製造し、製品を日本に輸出するという考えだったようであり、丙川は、セラミックヒーターを作ってくれる会社が見つかったと言っていたが、その会社というのが坂下だった。その後丙川がこの話をどのように展開していったのかは私には分からない。丙川に言われて岩崎ビルの一階の事務所を見に行ったことが二、三回あったが、それが北関東営業所の事務所であるということは知らなかった。」「私が丙川からの依頼で戊田に対して丙山の貸手形十数枚を二、三回に分けて発行したことがあり、その時、丙川から戊田を紹介してもらった。」などと供述した。

原告は、丙川通商については、「前身の群馬芸能企画という会社が休眠会社となっていたので、丙川から会社をやりたいと言われた際、この会社のことを教えた。丙川は代表取締役になって社名を丙川通商と変更したのだが、その後数か月中に役に立たないということで私に会社を返してきたので、私が代わって代表取締役となった。現在は休眠会社であるが、当座は私が丙川から引き継いでいる。」と供述し、また丁原を介して丙川から現金一〇〇万円を受け取った件については、昭和五九年の春頃だったと思うとした上で、「丁原が自宅に届けてくれたのであるが、その前日頃に丙川から話はあった。丙川が私に一〇〇万円を渡してきたのは、芸者の借金の支払をするためだったが、私は生活費等に使ってしまった。」と供述した。

(五) 戊田の供述調書の作成

乙山検事は、平成二年一〇月六日に浦和地方検察庁において戊田から事情聴取を行い、本件犯行の関係を中心に一連の被害状況について供述を得るとともに、被害に至る経緯並びに原告との接触の経過について次のような供述を得て、供述調書を作成した(乙八号証)。

すなわち、戊田は、被害に至る経緯の詳細は警察で述べたとおりであるとした上で、「丙川の提言で昭和五八年一〇月一一日前橋市内に北関東営業所を開設し、ホームサウナを専門に販売することになったが、丙川の話では、同人の友人に原告といいう前橋地方で顔のきく人物がいて、原告が実質的に経営する丙山が坂下の販売代理店として安定販売をするということであった。」と供述した。そして、原告とは三回会ったことがあるとした上で、「一回目は昭和五八年六月頃、上野の風月堂の喫茶室で丙川から原告を紹介された時のことであり、この時はホームサウナの話はまだ出ていなかった。」「二回目は昭和五九年一月六日に群馬ロイヤルホテルで丙川と共に三人で会った時のことであり、この時の詳しいやりとりも既に警察でお話したとおりである。丙山が坂下に渡した支払手形を期日までに落とせないということで、昭和五八年一二月三一日支払期日の九七万五〇〇〇円の手形と同五九年一月五日支払期日の一〇〇万円の手形の分については、同五八年一二月二九日に前橋信金東支店の原告名義の口座に入金し、残る同五九年一月一〇日支払期日の一〇〇万円の手形の分について、同月六日に現金一〇〇万円を持参して原告に会ったのである。私が丙川に現金を渡すと、丙川はそれをそのまま原告に渡していた。原告は、一二月二九日の振込送金の件と当日の一〇〇万円の件について頭を下げて礼を言っていた。」「三回目は昭和五九年四月二三日に上野駅前のタカラホテルで会った時のことであり、この時は丙川の外に坂下の取締役の金子肇も同席し、仕事の話はせずにお茶を飲んで、その後浅草の『くらぶ松』へ飲みに行っただけである。」と供述した。

その後、平成二年一〇月一一日には、大宮警察署において司法警察員が改めて戊田から事情聴取を行い、丙山の手形が貸手形(融通手形)である旨の原告の弁解を否定する旨の供述を得るとともに、戊田の提出した坂下の売上帳、受取手形記入帳及び手形領収証控の各写しをもとに、坂下の受取手形一四通はサウナの販売代金として受け取ったものであることを確認する内容の供述を得て、同日付け供述調書を作成した。

(六) 裏付け捜査

大宮警察署においては、以上の被疑者ら及び戊田の各供述の裏付け捜査として次のような捜査を遂げた。

まず、坂下の丙山からの受取手形の決済状況に関しては、不渡手形一二通(別紙三記載の⑥ないし⑰の手形)は既に戊田から任意提出を受けて領置していたので、平成二年一〇月三日には決済手形二通(④及び⑤の手形)について前橋信用金庫東支店に捜査照会を行い、同月八日に右各手形の写しを添付した回答書を得た。そこで、更に、右各手形の決済資金の入金状況につき、同日、同支店に対し、丙山の当座預金口座への右各決済資金の入金に関する入金伝票の写しの作成交付を求めて捜査照会を行い、同日中に回答を受け、昭和五九年二月一〇日の三〇〇万円についての入金伝票の写しの交付を得た。そして、昭和五九年五月三一日の一〇〇万円については、更に同金庫本店に依頼して、平成二年一〇月一一日に振込依頼書の写しを入手した。

次に、原告と坂下の北関東営業所との関係については、大宮警察署司法巡査が、平成二年一〇月三日に同営業所の元営業部員町田敏美から、同月四日に再度同営業所の元事務員町田礼子からそれぞれ事情聴取を行い、各供述調書を作成した。このうち、町田礼子からは、原告が北関東営業所の事務所に頻繁に出入りして丙川と接触していたという供述を再び得ただけであったが、町田敏美からは、同人が営業部員として入社した経緯について、「原告の経営するカフェバー『ボンソワール』にマネージャーとして勤めていた昭和五八年頃、丙川とその連れの甲田が原告の知り合いということで店に出入りするようになった。店を辞めて昼の仕事に移りたいと話をしていた私に、原告から、『今度丙川さんが前橋市内で家庭用ホームサウナの販売会社を開設することになったのでそこで働いてみないか。』という話があり、同年九月頃に原告から丙川を正式に紹介してもらった。その後丙川を車に乗せて新設会社の事務所探しをし、岩崎ビルに事務所を構えた同年一〇月頃正式な社員となった。」という供述を得るとともに、原告が一週間から一〇日に一度の割合で同営業所の事務所に丙川を訪ねてきて、丙川とホームサウナの売り先について話をしていたという供述を得た。

更に、丙山の設立の経緯については、平成二年一〇月五日に大宮警察署司法警察員が丙山の元代表取締役甲川秋夫から事情聴取を行い、同日付け供述調書を作成した。この中で甲川は、「原告とは私が日東興業という会社に勤めていた昭和五六年頃に、ゴルフ会員権の売買を通じて知り合いになった。丙山設立の話は、昭和五七年七月頃、原告から『お前は銀行出身で融資業務に精通しているので、融資等の申込手続の代行業をやろう。』という話を持ち掛けられたのがきっけで持ち上がったもので、原告の自宅でその話し合いをした。設立登記は私が知り合いの登記事務所に頼んで行った。原告が『不渡りを出したことがあって自分は代表取締役になれない。』と言うので、名目上は私が代表取締役になった。しかし、社印、ゴム印等は原告が作って自分で保管していたし、前橋信金東支店に口座を開設したのも私ではなく、原告か原告の妻だと思う。私は昭和五八年になってからは事務所にほとんど顔を出さなくなり、会社も休眠状態となった。原告の悪い風評を耳にしたこともあって、同年中に父に原告と連絡を取ってもらい、丙山の役員を下りた。」と供述した。

また、最初のバッタ売りに関する丁原の供述の裏付け捜査として、平成二年一〇月九日に大宮警察署司法巡査が青木敏雄から改めて事情聴取を行い、同月二日に丁原方から押収した領収証を示すなどして具体的な供述を得て供述調書を作成した。この中で青木からは、昭和五九年一月下旬頃、丁原が四、五回に分けて約束どおりホームサウナ一〇〇台を持ち込んできたこと、そこで、一台四万円で合計四〇〇万円を現金で用意して同月三〇日の夜に自宅を訪ねてきた丁原にこれを一括して支払ったこと等の供述を得た。

なお、平成二年一〇月六日には秀朋産業の当時の営業部長石井中郎からも事情聴取を行い、坂下とのサウナの取引状況にについての供述を得て同日付け供述調書を作成している。

(七) 丙川の起訴と原告及び丁原の勾留期間延長決定

平成二年一〇月一一日、乙山検事はそれまでの捜査の結果に基づき、丙川について、同人が原告、丁原らと共謀して本件犯行を遂げたという詐欺罪の訴因により浦和地方裁判所に対して公訴を提起した。

そして、翌一二日、浦和地方検察庁において、乙山検事は、原告に対する取調べを行った上で、同人及び丁原について勾留期間の延長を請求して、同日、右両名の勾留期間を同月二二日まで延長する旨の決定を得た。

7  原告及び丁原の起訴に至る捜査の経過

その後、大宮警察署及び浦和地方検察庁は次のような最終捜査を遂げ、平成二年一〇月二二日、乙山検事が原告及び丁原を詐欺罪で起訴するに至った。

(一) 丙川の取調べと供述調書の作成

大宮警察署においては、斉藤刑事が丙川の起訴後も同人に対する取調べを重ね、まず、平成二年一〇月一五日には、丙川からロイヤルホテルにおける共謀の状況を更に補充する内容の供述等を得て、同日付け供述調書を作成した。この中で丙川は、「昭和五九年一月下旬の二四日から二六日頃、原告と丁原が北関東営業所に来て、突然私に、『ジャンプ手形の決済資金がなくて決済できないから、丙川さん何とかしてくれないかね。』と言ってきた。私は二人に、この話は群馬ロイヤルホテル内の喫茶店でしようと言って、丁原の車でロイヤルホテルに行った。私が原告に、『甲野、どうして手形の決済ができないんだ。サウナはもう何十台も卸しているのに、おかしいではないか。』と言って問い詰めたところ、原告は、『自分のやっている水商売の方の資金繰りが忙しくて使ってしまい、決済金ができないんだよ。』などと言ってきた。当時原告が店のゲーム機のリース料の支払のことで暴力団員から盛んに脅されていたことは私も知っていたが、この時は私も頭に来ており、原告に『とにかく、手形は坂下も先に回しているらしいから決済してくれ。』と強く言うと、原告は、『丙川さん。そんならサウナをどんどん回してくれればバッタ売りでお金は幾らでもできるよ。そうしたら決済するよ。』などと言ってきた。私は、『サウナは高くて群馬じゃ売れないよ。それに、前橋じゃ既に原告らが一台七、八万円でバッタ売りしているらしいですよ。』と甲田らから何度も聞いていたため、この時、これじゃもう坂下の売値では全く商売ができないと思い、サウナを坂下にどんどん仕入れさせてそれをバッタ売りしてお金を作ろうと、つい悪いことを考え、原告に、『バッタの話になったらしようがない。それじゃ、坂下からサウナを引くから、それをバッタ安売りしてお金を作り、自分は韓国をよく知っているし、原告は台湾をよく知っているんだから、お互いのノウハウをもって別会社を作り、貿易の仕事をみんなでやろうや。』と言ったところ、原告は、「そうしよう。俺が会社を作って登記する。丁原は約束手形の名義人だから、不渡りにした時は会社倒産として、俺が丁原に幾らか金を渡してドロンさせるよ。だから、手形の支払期日が来るまでにどんどんやろう。』と言ってきた。こうして今回の取込み詐欺の犯行をすることで意気投合し、甲田や丁原にもこの話をして一緒にやったのである。」などと供述し、その後の経過として、「その後も原告とは、バッタの資金を貯めて別会社を作り、貿易をやる話をしていた。原告は、すぐ別会社作りに動き始め、私も原告に求められて印鑑証明や印鑑を用意するなどした。その後原告から、『会社を作ったよ。丙川さんを役員に就任させてあります。』と言われたが、この会社というのが丙川通商のことであった。」などと供述した。

更に、斉藤刑事は、翌一六日には、丙川から、坂下の丙山からの受取手形二通(別紙三記載の④及び⑤の手形)が決済された経緯についての供述を得て、同日付け供述調書を作成した。この中で丙川は、④の手形については、サウナ一〇〇台を卸してやって原告と丁原に金を作らせ、現金三〇〇万円を北関東営業所の事務所で確認の上、原告にその足で前橋信金東支店扱いの丙山の口座にこれを入金させて決済した旨供述するとともに、⑤の手形についても、斉藤刑事から振込依頼書等を示されて記憶が喚起されたとして、「やはりこの時も、原告と丁原が『お金ができないので何とかして下さい。』と言ってきたので、私としても、サウナの在庫がまだ一〇〇台以上あるのに不渡りにされたら困ると思い、私がサウナをバッタ安売りした代金の中から一〇〇万円を原告に渡して決済させた。具体的には、決済日の当日か前日頃の昼食前の時間に原告を群馬ロイヤルホテルの地下喫茶店に呼び出して、私がサウナをバッタ安売りした代金の中から現金一〇〇万円を原告に渡した。原告に『一〇〇万の決済金を渡すから必ず入金して決済してくれよ。サウナの在庫もかなり入っているんだから、ここで不渡りにされたんではお金にならなくなってしまうからよ。』などと言うと、原告は『うん分かったよ。おっか(原告の妻のこと)に急ぎ丙山の当座入金をさせるから大丈夫だよ。』と言っていた。原告は妻にこの一〇〇万円を預けて、前橋信金の口座に振込送金させている。」などと供述した。

平成二年一〇月一八日には、浦和地方検察庁において乙山検事が丙川に対する最後の取調べを行い、原告との共謀関係全般について改めて供述を得て同日付け供述調書を作成した。この中で丙川は、まず、ロイヤルホテルにおける共謀の時期について、その後関係資料を見せてもらい記憶が喚起されたとして、前回の乙山検事による取調べの際に供述した昭和五九年二月初め頃というのを同年一月二五日頃と訂正する旨申し立てた上で、その直後の経過として、「私は、原告と、この話をどんどん押し進め、資金を調達して貿易を専門に行う丙川通商を設立する話をしていた。私と原告の間では、丁原を代表取締役にしている丙山はいずれ潰してしまい、手形の期日がどんどん来る六月の中頃までにできるだけ商品を坂下から出荷させ、それをバッタで現金化して、丙川通商の開業資金に充てようということになっていた。丙川通商については、原告は香港に知り合いがいるのでそちらに顔がきき、私は韓国に顔がきくので、二人で協力しあって貿易会社を作ろうということになり、印鑑証明等一切を原告に預けて設立の手続をしてもらった。サウナのバッタについて、私が原告に『最後のけつはどうとる。』と尋ねたところ、原告は、『最後は丁原にけつをとらせる。逃走資金をやってしばらくドロンさせればいい。』と言ってきたので、私も丙山の代取が丁原になっているのをいいことに、全ての責任を丁原にかぶせてしばらく韓国にでも逃がしてやればよいと思い、そのようにすることにした。」旨供述した。更に、丙川は、昭和五九年三月一日付けで丁原が偽名を使って北関東営業所従業員となった件についても、丁原が「原告と一緒だと金を回してくれないので生活できない。」と泣きを入れてきたので、事前に原告の了解を得て自分の方で引き取った旨供述し、また、利得金の分配に関しては、原告へ丁原から情報が流れていたようであり、金が入ると、原告から「金が入ったのか。」と連絡が入ってきたので、昭和五九年五月三一日の手形決済資金として渡した一〇〇万円も含めると合計四八〇万円が原告に渡っていること、昭和五九年五月一八日のバッタ売りの時も、その前日頃原告から電話が入り、「明日バッタの三〇〇万が入るのか。俺にも一〇〇万回してくれ。」と言ってきたので、一〇〇万円を丁原に渡して原告に届けさせた旨供述した。

なお、この中で丙川は、昭和五九年四月初旬頃の坂下の本社近くの喫茶店での会合に関する丁原の供述については、「殊更四月初めになってそのような話をしたわけではなく、一月二五日頃のバッタの謀議以来事ある毎に丁原や甲田に対しては『バッタ先を見つけろ。どんどん売れ。』とハッパをかけていた。四月の時の話が印象的であったのは、その頃、営業所から本社に行くと、戊田は私ではなく丁原や甲田に対して売れ具合を尋ねており、それに対して丁原たちはもじもじして戸惑った返事をしていたので、『そんなんじゃばれてしまうじゃないか。』という気持ちから、話をしたためである。」と供述した。

(二) 丁原の取調べと供述調書の作成

大宮警察署においては、勾留期間の延長後も丁原については佐藤刑事が取調べを行い、平成二年一〇月一六日付けで三通の供述調書を作成した。この中で、丁原からは余罪に関する供述を得るとともに、同人が犯行に加わるに至った経緯等について原告に関する部分を中心に重ねて供述を得たが、新たに、丙川通商に関して、「昭和五八年の夏か秋頃から、丙川と原告の二人は、『別会社を作って貿易をやる。原告は台湾に詳しいし、丙川は韓国に詳しいから、二人でやればうまくいく。』という話をしていた。その後私は二人の狙いが坂下から取り込んだホームサウナをバッタして金を作り、その金を利用して別会社を作ることにあるということも薄々分かってきた。」旨の供述を得た。

平成二年一〇月一九日には、浦和地方検察庁において乙山検事が丁原に対する最後の取調べを行い、原告の弁解を否定する趣旨の供述を得るとともに、原告が一連の犯行に関与していたことを示す事実についても供述を得て、同日付け供述調書を作成した。

丁原は、まず、原告からの借金については、一〇〇万円位の借金があったが、原告のためにキャバレーで働いてその給料を返済に充てたので全部帳消しになっており、その他に原告からの借金はない旨供述した。また、丙山の代表取締役に就任した経緯に関しては、原告から一方的に言われて承知しただけのことであって、自分の記名印、代表者印等が作られた経緯も一切知らないし、原告にそれらを預かってほしいと頼んだことなどもない旨を、そして丙山振出しの手形についても自分は一切関知していない旨を重ねて供述した。

丁原は、次に、原告の北関東営業所との関わりについて、「北関東営業所の開設後、原告が同営業所に一回しか行ったことがないなどということは絶対になく、昭和五八年一〇月の開設後、同五九年三月に私が従業員となるまでの間に数回原告と一緒に同営業所に赴いたことがあるし、そこで待ち合わせをしたこともある。私が従業員となってからも、原告は数回同営業所に来ている。」「原告は、サウナのカタログ制作の時も丙川や私たちとあれこれ相談しているし、同営業所内にはサウナの見本も置いてあったので、同営業所に出入りすれば誰でもサウナを扱っていることは分かったはずであり、また、同営業所のドアには『株式会社坂下製作所北関東営業所』というネームが入っていたし、良く見えるように看板も掛けてあったので、そこが坂下の北関東営業所であることは一目瞭然であった。」などと供述した。

丁原は、更に、利得金の分配に関して、「北関東営業所の従業員となった後も、時々、原告の家に行ったり、近くの居酒屋で酒を飲むようなことがあったが、そのような折りに、バッタ売りの金がまとまって入る見込みがある時などは、『甲野さん。相当まとまった金がサウナのバッタで入りますよ。』などと教えてやることがあった。私としては、既に相当数の丙山の手形が坂下に渡っており、納品書も領収書も丙山の代表取締役である私の名前が表に出ているため、このままでは責任を全部自分一人がしょいこむことになる恐れがあったので、丙出の実質的な経営者で実権を握っている原告を自分の元につなぎ止めておきたいという気持ちがあり、また、丙川がバッタの代金を独り占めにするような気配も見られたことから、原告に金が入る情報を流してやったのである。」などと供述した。

なお、丁原は、バッタ売りにおいて自分の名前だけが表に出ているので心配になって何回も原告に尋ねると、原告は、その都度、「心配するな。自分が責任を取る。」という趣旨のことを言ってくれたと供述した上で、前回の乙山検事の取調べにおいて、原告から、「お前の家には毎月給料分の二〇万円ずつ振り込んでやる。」と言われた旨述べていた点を、原告自身ではなく丙川から「お前の家には毎月給料分の二〇万円ずつ原告に持って行かせる。」と言われたと訂正する旨の申立ても行った。

(三) 原告の取調べと供述調書の作成

大宮警察署においては、原告については、勾留期間延長後も三逵刑事が引き続き取調べを行い、平成二年一〇月一六日及び同月一七日の二日間にわたって次のような供述を得て、計四通の供述調書を作成した。

原告は、まず、丙川に頼まれて知人にホームサウナ五台を有償若しくは無償で譲渡したという件について、建築設計業者の石川正安ら譲渡先を具体的に供述するとともに、この外に自分がサウナを扱ったことはない旨改めて供述した。

原告は、次に、丁原の代表取締役就任後も丙山の手形帳、社印、ゴム印等は全て原告が管理していた件について、手形帳、社印等は甲川秋夫から自分が引き継いで持っていたものであるが、代表取締役丁原名のゴム印はどういう経緯で自分が入手したのか分からないとした上で、「丁原は個人で当座を開設して不渡り手形を発行した前歴があるなど金銭面で信用できない人物であり、同人に手形を乱発されて当座取引を停止されては困るので、それらは丁原には預けずに、私が保管しておいた。私がそれらを保管していた理由はそれ以外に何もなく、私が丙山の実質的経営者であるということではない。」旨供述した。

原告は、また、同人が発行した丙山の手形について、自分は丙川の依頼を受け、三回位に分けて十数枚の手形を発行したとして、次のように供述した。

「最初は昭和五八年一〇月のことで、丙川から手形を貸してくれと言われて三枚位発行している。自宅で社印とゴム印を押して発行した。金額欄の記載内容は忘れた。」

「次は同年一二月末頃のことで、丙川から電話があり、『坂下の社長が、金がないというのではないけれど……』と言い、次に何に使うと言ったかは忘れたが、『手形を融通してくれないか。』と言ってきた。坂下のような会社がなぜ融通手形を必要とするのか私には分からなかったが、友人の丙川の言うことなので仕方がないと思って、手形を発行することにし、ゴム印と社印は押して宛て先、金額及び振出日は白地のまま上野に手形を持参した。上野では、丙川、戊田らと計四名で会ってで戊田に手形を渡し、その後食事をして、浅草のクラブにも行った。支拡期日が来た後で、戊田から、『送金決済いたしました。有り難うございました。』といった内容の葉書が事務所か自宅に届いた。今はその葉書がどこにあるのか分からない。」

「三回目もやはり丙川が手形を貸して欲しいと言ってきたので、言われるままに手形を発行した。この時はたくさんの手形を発行した。この時も私はゴム印と社印を押しただけで、その他の記載は一切していない。」

なお、三逵刑事が、その際に、既に入手していた決済手形二通の写しを示したところ、原告からは、決済手形二通のうち支払期日昭和五九年二月一〇日の金額三〇〇万円の手形(別紙三記載の④の手形)が二回目に戊田に渡したものであり、その余の一三通の手形(⑤ないし⑰の手形)は三回目に丙川に渡したものである旨の供述を得た。

原告は、更に、北関東営業所に関しては、「丙川が坂下の北関東営業所長になっていたことなど全く知らなかった。丙川の事務所には一度訪問して、パンフレットを貰ってきたことがあるが、何をしている会社かは何も知らされていないし、北関東営業所という名称さえ知らなかった。坂下という会社はセラミックヒーターを作っている会社であると聞いており、坂下の戊田社長のことも会って知っているのだが、坂下の北関東営業所がホームサウナを扱っていたことは知らなかった。」などと供述し、群馬ロイヤルホテルにおける会合についても、「丙川に呼ばれて一度ロイヤルホテルに行ったことはあるが、この時は丁原も丙川と一緒に居て、丙川から『二人で商売をするのだけれど』という話があり、私が前橋が地元であるということで『人を紹介したり力になってくれ。』などと言われた。」旨供述し、丙山がホームサウナの販売代理店であるという点についても、自分は全く知らなかった旨供述した。

原告は、最後に、丁原から現金一〇〇万円を受け取った件について、次のように供述した。

「昭和五八年秋頃丙川から、『新潟県の湯沢で芸者をしている女で水商売向きの女がいる。』という話があった。結局その女は甲田の彼女だったのだが、丙川の話によれば、『二五〇万から三〇〇万の借金があって芸者置屋で働いている。』とのことだったので、雇い入れるのは難しいかと思っていたところ、ある日丙川が、『金を使わないで連れて来ることができた。』と言ってその女を連れてきた。その女は『乙原』という女で、水商売をするにはまあまあの女であると思えたので、同年九月頃から同女をボンソワールのホステスとして雇うことにした。同女は翌五九年の三月か五月頃までボンソワールで働いていたが、いい男ができたらしくその男とどこかへ逃げてしまった。その後、同女が逃げてしまったことを聞きつけた丙川から電話があり、『乙原のことを一銭もかけずに前橋に連れてくることはできたのだが、もしかするとそのうち置屋の人たちが借金の取立てに来るかもしれないから、後々問題がないように一〇〇万円を渡しておくので、それを置屋に払ってくれ。』と言ってきた。その金を実際に持ってきたのが丁原だったのである。この時受け取った金を何に使ったかは忘れてしまった。」

乙山検事も、平成二年一〇月一九日に浦和地方検察庁において原告を取り調べ、原告から事実関係全般にわたる最終的な供述を得て、同日付け供述調書を作成した。

原告は、まず、丙山の設立並びにその後の代表取締役の変遷の経緯について、乙山検事に対し次のように供述した。

「丙山は、甲川秋夫が個人飲食店の事務代行業をやるというので同人を代表取締役として設立され、私はその取締役となり設立費用も甲川に貸した。丙山の代表者印、手形帳、社印はその頃から私が預かっていた。その後甲川が退社して私の内妻であった乙野花子が代表取締役になったが、ずっと休眠会社になっていた。昭和五八年七月頃知り合いの丁原がやって来て、『健康器具を販売するのに、個人じゃローンを組めない。』と相談してきたことから、丙山を丁原に譲ることにした。登記の手続は丁原が自分でやった。丙山の社印、丁原の代表者印、記名印、手形帳等の手形関係のものについては、丁原は以前に銀行取引停止を二回出しており、また当時私は既に丁原に約二〇〇万円の貸金があったことから、双方の合意で一切私が保管していた。しかし、私は単に預かっていただけであり、自分が丙山の実質的経営者であるとは考えていない。」

原告は、次に、戊田とは二回位会ったような気がするとして、乙山検事に対し次のように供述した。

「一回目は昭和五八年のいつ頃かは定かでないが、上野の風月堂で丙川と会った時、丙川と同席していた男性が戊田だったように思う。ただ、この時は紹介もされず、別のテーブルで丙川と話をしただけだった。」

「二回目もやはり昭和五八年のいつ頃かは定かではないが、上野で待ち合わせをして私が丙山の三〇〇万円の手形を持っていった時のことであり、この時は丙川と戊田と坂下の関係者がもう一人居て、私は、初めて丙川から戊田を紹介された。私は戊田から融手を貸したお礼を言われ、その後上野で接待を受けた。この時、三〇〇万円の手形の外にもう一通位融手を戊田に渡しているかもしれないが、その点ははっきりしない。」

原告は、更に、丙山の手形を振り出した経緯について、乙山検事に対し次のように供述した。

「私は昭和五八年の九月から一二月までに丙川に言われて丙山の融手を一四枚位振り出しているが、そのうち一二枚位は、丙川から丙山の手形を貸してくれと言われて振り出してやったものであり、それを何に使うのか、どこへ回すのかは分からなかった。残り二枚位を丙川の口利きで融手として戊田に回してあげたのである。私は、丙山が坂下とサウナの取引をしていたことは全く知らなかったのであり、手形はサウナの代金の支払のために振り出したのではなく、融手として振り出したのである。戊田からも、いつ頃だったかは忘れたが、『何月何日に送金しました。決済をお願いします。ありがとうございました。』という礼状の葉書が来た覚えがある。」

原告はまた、ホームサウナの取引ないし北関東営業所に関しては乙山検事に対し次のように供述した。

「昭和五八年頃丙川から韓国製ホームサウナ五台を買い受けて、そのうち四台を売却し、一台をプレゼントしたことがあるだけで、その他の取引のことは全く関知していない。丙川や丁原らが坂下の北関東営業所の従業員となり、ホームサウナを仕入れてこれをバッタ売りしていたなどとは一切知らなかった。北関東営業所は丙川の案内で三回位訪れたことがあるが、一回目は中には入らず、『ここを借りたいと思う。』と言われただけであり、二回目は中には入ったが、内装工事中であった。三回目も開設はされていたが、看板も出ておらず、そこが坂下の北関東営業所であるということは知らなかった。丙川からも、『セラミックヒーターを売りたい。』という話は聞いたが、サウナバスを売るという話は全く出なかった。」

原告は、群馬ロイヤルホテルにおける会合についても、「昭和五八年末頃か翌五九年初め頃、群馬ロイヤルホテル一階ロビーで丙川と丁原と私の三人で会ったことはあるが、どんな話をしたかは覚えておらず、確か丙川と丁原が一緒に商売をするようになったという話が出たと思う。」と供述し、丙川通商についても、「昭和五九年二月頃、丙川から『会社をやりたいんだけれどもどうだろうか。』という相談を受けたので、私は丙川に『新しい会社を作ると金がかかるから、群馬芸能企画を貸してやろう。』と言って当時休眠会社であった群馬芸能企画を商号変更して丙川が代表取締役になるのを勧めてやっただけである。」と供述した。

原告は、丁原から現金一〇〇万円を受け取った件については、乙山検事に対し結局次のように供述した。

「昭和五九年五月頃丁原から一〇〇万円を受け取ったという点については、正直なところはっきりした記憶がない。これまでの取調べにおいては、その点につき、当時甲田の彼女の『乙原』という女の前借金を私が立替払して、同女をボンソワールのホステスとして雇っていたところ、男ができて同女が逃げてしまったため、丁原がその男か乙原から一〇〇万円取ってきたと言ってお金を渡してくれたのであると述べているのだが、本当のところは、そんなこともあったのではないかといった程度ではっきりしない。その頃丁原が私に一〇〇万円を届けたというのであれば、この乙原の関係か、あるいは丁原が私から借りていた借金の返済であると思う。」

(四) 裏付け捜査

大宮警察署においては、本件公訴提起に至るまでの間に、原告の供述等の裏付け捜査として次のような捜査を遂げた。

まず、大宮警察署においては、司法警察員が、平成二年一〇月一五日、原告の妻甲野花子から事情聴取を行い、坂下の丙山からの受取手形のうち決済手形二通(別紙三記載の④及び⑤の手形)の決済状況の裏付け捜査により既に入手していた入金伝票及び振込依頼書の各写しについて、その作成者に関する供述を得るとともに、本件の関係会社や関係者につき知り得た事実に関する供述も得て、供述調書を二通作成した。このうち、前者の関係では、昭和五九年二月一〇日に丙山の当座預金口座に三〇〇万円の入金をした旨の入金伝票の記載は自分の字のようなので、自分が夫の原告から頼まれてこの入金手続をしたのだと思うこと、同年五月三一日に右口座へ一〇〇万円の振込送金を依頼した旨の振込依頼書の記載は、自分の字と少し違うようであるが、振込依頼先の前橋信金片貝支店は自分も場所をよく知っており、ボンソワールの当座もあった店であること等の供述が得られた。また後者の関係では、丙山については、甲川秋夫という人が表に出て、日動火災の前橋支店だか群馬支店だかと代理店契約をして、損害保険の代理業務を行っていた会社であること、その後、昭和五八年頃になって、原告から、「甲川が都合で出来なくなった客がいるので、お前がやるように」という意味のことを言われ、試験を受けて自分が個人で代理店業務を引き継ぐことになり、当初は「日動火災代理店JBA乙野花子」という名称で、その後、昭和六三年に原告と入籍したため、「日動火災代理店JBA甲野花子」という名称で代理店登録をしているが、開店休業状態となっていること等を供述し、ホームサウナの取引に関しては、「私は丙川さんが自分で会社を作り、坂下という会社からサウナを仕入れて販売しているものと思っていた。それに原告が加わっているとは思っていなかった。」旨供述した。

次に、大宮警察署においては、原告が丁原から一〇〇万円を受け受った趣旨は、「乙原」というホステスの借金返済の関係である旨の原告の供述の裏付け捜査として、次のような事情聴取を行った。

すなわち、平成二年一〇月一六日に、同署司法巡査は、原告の経営していたクラブ「ボンソワール」の元ホステスの戊原春子から、「みづき」という源氏名で同女が同店で稼働するに至った経緯やその後の状況について事情聴取を行い、同日付け供述調書を作成した。この中で戊原は、「昭和五七年一一月頃、甲田の借金がもとで同人と夜逃げをして新潟の湯沢温泉に身を寄せ、甲田の知り合いの『美喜本』という置屋のママに世話になることになった。私は美喜本の芸者として働いてママからの前借金を返済していたのだが、その後丙川の誘いで前橋に行ってしまった甲田を頼りに私も前橋に出て来て、昭和五八年九月三〇日から原告の経営するクラブ『ボンソワール』で『みづき』と名乗りホステスとして働くようになった。しかし、私が前橋に出て来た頃には、美喜本のママからの借金が八〇万円位残っていたので、甲田が原告から金を借りて美喜本のママに返済をし、私が原告から八〇万円を借りたという借用書を作って給料から毎月一〇万円ずつ天引で返済してゆくことになった。ボンソワールからの給料は月二回払いで、昭和五八年一二月分の給料から毎回五万円ずつ天引されるようになり、翌年七月末までに返済が全て終わったことになっている。」旨供述するとともに、給料天引による返済状況を裏付ける資料として、当時ボンソワールから受け取った給料支払明細書を保管してあるとして、これを任意提出した。

戊原の「美喜本」からの前借金の返済状況に関する裏付けとして、更に、大宮警察署司法巡査は、平成二年一〇月一八日に有限会社美喜本の経営者である斉藤美江子から事情聴取を行ったところ、同女から次のような供述が得られたので、同日付け供述調書を作成した。すなわち、斉藤は、「昭和五七年暮れ頃、知り合いの甲田が戊原春子を連れてきて、『ここで芸者として働かせて欲しい。』と同女を紹介した上で、『サラ金への返済期日が迫っているので金を貸して欲しい。』と申し込んできたので、私は個人で計二五〇万円を貸し与え、返済は春子の給料の中から月々一〇万円ずつ天引することにし、同女を近くのアパートに住まわせて芸者として雇い入れることにした。その後甲田が行方をくらましてしまったので、私は春子の母親に連帯保証人となってもらい、新たに借用書を作り直して春子の面倒を見ていたのだが、同女も昭和五八年九月頃突然夜逃げのようにして行方をくらましてしまった。その後春子や甲田から連絡はなく一銭も返済を受けていない。お示しの写真の丙川、原告、丁原という人たちは私の全く知らない人で、一度も会ったことがない。」旨供述した。

そこで、大宮警察署司法巡査は、平成二年一〇月一九日に改めて戊原春子から事情聴取を行い、前回の供述について次のような一部訂正の申立てを受けて、同日付け供述調書を作成した。すなわち、戊原は、湯沢温泉から前橋に出て来た経緯については、「前回本当のことを申し上げられなかったのだが、実は前橋に来る前日に甲田から電話があり、『働く店が用意できたから明日にでも前橋へ来いよ。美喜本にある借金のことはその店のオーナーから借りる形にするから心配しなくていいよ。』と言われたため、私は手提げバッグ一個を持って夜逃げをし、前橋に出て来たのである。」と斉藤美江子の前記供述に沿う形で供述を補充し、また、斉藤美江子からの借金の額についても、よく思い出してみたところ、合計二〇〇万円位の額の借金があった旨供述を訂正するとともに、「この借金を返済してくれたという甲田や丙川の話が嘘であるとすれば、私は給料天引の形で八〇万円もの金を騙し取られていたことになる。」旨供述した。

大宮警察署においては、以上の捜査の外にも、秀朋産業の当時の工場長黒川武から事情聴取を行い、ホームサウナの製造・出荷状況の裏付け捜査により既に入手していた作業日報の記載内容に関して補充的な供述を得て供述調書を作成するなどの捜査を遂げた。

(五) 乙山検事による戊田からの最終事情聴取と供述調書の作成

平成二年一〇月二二日、乙山検事は再度浦和地方検察庁において戊田から事情聴取を行い、戊田の原告との接点がホームサウナの取引にあったことを示す次のような供述を重ねて得て、同日付け供述調書を作成した(乙九号証)。

すなわち戊田は、原告が戊田に三〇〇万円の融通手形を渡した旨述べていることについて「それは全くの間違いであり、私は一度も原告から融手を借り受けたことはなく、坂下が受け取った丙山の手形は全てホームサウナ及びカタログの代金として受け取ったものである。」として、受取手形記入帳の該当箇所の写しを提出した上で、坂下の丙山との最初の取引に関して受け取ったとされる丙山の手形三通(別紙三記載の①ないし③の手形)のジャンプの経緯については、次のように供述した。

「昭和五八年一二月三一日支払期日の九七万五〇〇〇円の手形と同五九年一月五日支払期日の一〇〇万円の手形の二通については、丙川から期日に落とせないという話があったので、昭和五八年一二月二九日に前橋信金東支店の原告名義の口座に一九七万四二〇〇円を振込送金している。私の振り込んだ金額は手数料八〇〇円分を差し引いたものになっているが、これは、本来振出人の丙山が支払うべき金を好意で振り込んでやるのだから、当然のことと考えてそのようにした。また、振込入金先は丙川の指示に従ったのだが、原告のことは最初から丙山の責任者として紹介されていたので、何の疑いも持たなかった。」

「昭和五九年一月一〇日支払期日の一〇〇万円の手形についてもやはり丙川から期日に落とせないと言われたため、同月六日群馬ロイヤルホテルで丙川、原告と私の三人で会った時に現金一〇〇万円を丙川を介して原告に渡している。この時のやりとりとしては、原告は私に、年末に振込入金を受けたことを認めた上で『手形の決済のことでは大変ご迷惑をお掛けしました。ありがとうございました。』と頭を下げて礼を言っており、更に、その日持参した現金一〇〇万円についても、『ありがとうございました。この一〇〇万円は必ず入金して決済いたします。』と言っていた。丙川の話では、三通の手形の代わりに迷惑料等として二万五〇〇〇円を上乗せした昭和五九年二月一〇日支払期日の三〇〇万円の手形を当日原告が持参することになっており、実際原告はその手形を持って来ていた。私がそれを受け取ってみたところ、印紙が貼っていなかったので、『印紙を貼って丙川に届けて下さい。』と言ってその日はこれを受け取らなかった。数日後、きちんと印紙の貼ってある手形を丙川から受け取っている。以上のようなやりとりからみても、原告はこれらの手形を融手ではなく商手として認識していたはずである。なお、以上の三通の手形は取引先の銀行に割り引いてもらっていたので、このまま不渡りにしてしまうと私の信用にも係わることから、立替払をすることにしたのである。」

戊田は右のように供述するとともに、昭和五八年一二月二九日の振込送金に関しては振込金受取書の写しを、同五九年一月六日のロイヤルホテルにおける会合に関しては喫茶代の領収書の写しをそれぞれ提出するなどした(調書末尾に添付された。)。そして、乙山検事は、最後に、「丙山の手形が商手であることは間違いないのに融手であったなどとはとんでもないことであり、今なお責任逃れをするような者については厳重に処罰してもらいたい。」旨の供述を得た。

(六) 本件公訴提起

以上の捜査結果に基づき、証拠関係を検討した結果、乙山検事は、原告の供述については、それが合理的理由なく変遷し、不自然かつ曖昧であり、関係各証拠とも矛盾しており、到底信用できないものであって、原告は自己の罪を免れんがために虚偽の弁解を繰り返し、犯行を否認しているものと判断し、以下の事実を認定した。

(1) 原告は、本件取込み詐欺の取込み先となった丙山の実質的な経営者である。

(2) 取込み商品であるホームサウナの代金支払として丙山名義の約束手形を振り出したのは原告であり、右手形は全て不渡りとなっている。

(3) 原告が振り出した丙山名義の手形の決済が困難になったことがきっかけでバッタ売りの話が持ち上がり、原告、丙川及び丁原の間でホームサウナの取込み詐欺の謀議がなされた。

(4) 原告は、丙川らが坂下から仕入れたホームサウナを直ちにバッタ処分することを承知しており、バッタ売りして得た金の一部を取得している。

以上の事実に照らして、乙山検事は、原告についても丙川、丁原及び甲田と間で詐欺罪の共同正犯が成立し、結局有罪と認められる嫌疑があるものと判断し、平成二年一〇月二二日、商品処分の流れが明確な昭和五九年五月一八日ころのホームサウナ六〇台についての本件犯行に限定して本件公訴提起に及んだ。

二  公訴提起の違法性の有無の判断基準

刑事事件において無罪判決が確定した場合であっても、検察官のした公訴の提起が国家賠償法一条一項の規定にいう違法な行為に該当すると認められるためには、公訴の提起が、検察官が現に収集した証拠資料の評価を誤り、非合理的な心証形成をした結果、あるいは、当該事案の性質に鑑み当然なすべき捜査を遂げなかったため、証拠資料の収集が不十分であった結果なされたものと認められることを要すると解すべきである。

そこで、本件公訴提起が違法であったか否かを判断するに当たっても、本件公訴提起に至るまでの間に検察官が現に収集した前記一において列挙した証拠資料を総合考慮し、その外に検察官において通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料があず場合にはそれも併せ勘案して、合理的な判断過程により原告に有罪と認められる嫌疑がなかったかどうかを検討することにする。

三  本件公訴提起が違法であったか否か

1  証拠資料により認められる基本的事実関係

(一) 丙山における代表者名義と手形の振出権限の分離

(1) 丁原の代表取締役就任と原告による手形の振出権限の留保

捜査段階において収集済みの丙山の登記簿謄本によれば、丁原が昭和五八年七月五日に丙山の代表取締役に就任した旨の登記が同月一二日に経由されたことは明らかである。

そして、丙山が前橋信用金庫東支店に当座預金口座を開設していたことは証拠上明らかに認められるところ、丁原の代表取締役就任後も、原告が、手形帳、丙山代表取締役丁原名のゴム印、印章等を所持し、もって丙山名義の手形の振出権限を事実上独占していたこともまた、捜査段階において原告自身これを認めるに至っており、証拠上明らかな事実である。

(2) 若干不明瞭な点の検討

まず、丁原の代表取締役就任の経緯については、「健康器具の販売をするのに個人ではローンを組めない。」と丁原から言われたことがきっかけで丙山を丁原に譲ることにした旨の原告の供述と、「お前を丙山の代表取締役にするぞ。」と原告から言われたので名前だけ貸すつもりでこれを承諾した旨の丁原の供述とが捜査段階においても対立しているが、これについては、いずれかの供述に特に信用をおくべき事情があるわけでもない上に、当時坂下におけるホームサウナ販売事業計画がどの程度具体化していたかは証拠上必ずしも明らかでないため(未だ具体化していなかった可能性が高い。)、丁原の代表取締役就任の当初の経緯それ自体は、いずれにせよ、坂下におけるホームサウナの取引に原告が関与していたか否かという核心的争点とは関係が薄いと言わざるをえない。乙山検事は、丁原が丙山の名目上の代表取締役にすぎないと認定していることからすると、この点についても、丁原の供述の信用性を肯定したことが推認されるが、同検事も、原告が丙山の実質的経営者であると認定するに当たっては、丁原の代表取締役就任の経緯の点よりも、原告が丙山名義の手形の振出権限を独占していたという事実の方を重視していたことが認められるから、丁原の代表取締役就任の経緯に関する乙山検事の心証形成の適否は、原告に有罪の嫌疑を認めた結論の合理性の有無に直接影響を与えることはないということができる。

次に、丁原の代表取締役就任後も原告が手形振出権限を留保していた理由につき、原告の捜査段階における供述中には、「丁原に手形を乱発されて当座取引を停止されては困るので自分が保管していた。」とか、「丁原は以前銀行取引停止を二回出しており、また当時自分は丁原に約二〇〇万円の貸金があったこともあって、双方の合意で自分が保管していたが、単に預かっていただけである。」という部分がある。しかし、その後原告が丙山名義の手形を振り出した状況(その具体的内容は後述する。)に照らせば、乙山検事において、原告が手形の振出権限を留保するについて「丁原の手形乱発を防止するために預かっておく」という程度の消極的な理由しか持ち合わせていなかったとは到底考え難いという心証を持ったのは、当然であったということができる。

(二) 坂下におけるホームサウナの仕入れの関係

(1) 秀朋産業からの仕入状況

戊田及び丙川の供述等の関係証拠を総合すれば、昭和五八年八月二〇日付けで坂下の取締役に就任した丙川は、その頃から戊田に提言して群馬県前橋市を本拠としてホームサウナ販売事業を行うことにし、同年一〇月一一日頃、同市内に坂下のホームサウナ販売部門として北関東営業所を開設して同営業所長に就任したこと、同営業所におけるホームサウナ販売事業は、本社の戊田を通して製造元の秀朋産業に製造・出荷の発注をして製品のホームサウナを仕入れ、これを販売代理店に卸販売したり、消費者に小売販売することにしていたことが認められる。そして、捜査段階において収集済みの出荷証明書(昭和五九年六月七日付け秀朋産業作成)によれば、北関東営業所において秀朋産業からホームサウナを本格的に仕入れるようになったのは昭和五九年に入ってからであり、同年一月以降の秀朋産業から坂下へのホームサウナ(健康型及び爽快型)の出荷・納品状況は概ね、①一月二七日・健康型二〇台、爽快型三〇台、②二月二五日・健康型五〇台、③三月七日・爽快型三〇台、④三月二六日・健康型五〇台、爽快型一台、⑤四月一二日・健康型六〇台、⑥四月二三日・健康型五〇台、⑦五月八日・爽快型四八台、健康型二台、⑧五月一一日・健康型三八台、爽快型一二台、⑨五月一八日・健康型六〇台、⑩五月二五日・健康型三〇台、⑪五月二八日・健康型二〇台、⑫五月三一日・健康型二〇台、⑬六月二日・健康型二二台、⑭六月四日・健康型五八台、以上合計・健康型四八〇台、爽快型一二一台であることが認められる。

なお、右出荷証明書は、当初告訴状添付の疎明資料として提出されたものと認められるところ、その後の裏付け捜査によって、右出荷台数が秀朋産業の製造工場で作成されていた作業日報の記載に基づくものであること、秀朋産業が坂下宛てに発行した納品書の納品日が一部これと食い違っている場合は納品書の記載の方が経理上の理由でずらされていることが確認されている。

(2) 若干不明瞭な点の検討

まず、北関東営業所においてホームサウナを仕入れるには、前認定のとおり本社の戊田を通して発注がなされることになっていたが、右各出荷・納品につき戊田が各発注をした時期は、証拠上必ずしも明らかでない。戊田の供述によれば、発注は坂下本社から秀朋産業宛てに註文書を発して行っていたことが認められ、捜査段階において若干の註文書は収集されているが、右註文書記載の各発注内容と各出荷・納品状況との対応関係は必ずしも明確ではない。ただ、本件犯行に係る昭和五九年五月一八日出荷・納品分のホームサウナ六〇台については、同年四月一六日に発注をしたものであることが戊田の供述等により解明され、犯行日が特定されるに至っており、本件犯行についての捜査自体に不十分な点があったわけではない。

次に、前記出荷証明書には昭和五八年一二月中に健康型ホームサウナ一五台の出荷・納品がなされた旨の記載がある。これについては、作業日報の該当部分は収集されていないが、日付こそ異なるものの同年中に一五台の納品があったことを直接裏付ける秀朋産業作成の納品書が収集されており、これらの信憑性を疑わせるような事情はないから、北関東営業所が秀朋産業から右ホームサウナ一五台を仕入れたという事実も証拠により認められるということができる(この一五台を北関東営業所が丙山に売り上げたという事実を乙山検事が認定した点については、後に改めて検討する。)

(三) 坂下における丙山名義の手形の取得

(1) 丙山名義の手形の受取状況

捜査段階において入手済みの坂下の経理帳簿のうち受取手形記入帳(前掲乙九号証等に該当部分の写しの添付がある。)によれば、坂下は、別紙三記載のとおり、昭和五八年一〇月七日から同五九年四月二五日までの間に六回にわたり計一七通の丙山名義の手形を取得したことが認められるところ、このうちの①ないし⑤の五通の手形が決済され、⑥ないし⑰の一二通の手形(額面合計三九四〇万五〇〇〇円)が不渡りとなったことは証拠上明らかである。

そして、右手形一七通が全て原告の振り出したものであることもまた、捜査段階において原告自身がこれを基本的に認めるに至っており、証拠上明らかな事実である。

(2) 手形受領の趣旨

坂下は、右手形一七通のうち④の手形を除く計一六通を、北関東営業所がジャパンに売り上げたホームサウナの代金の支払として受け取ったことが、戊田の供述等により認められ、坂下の経理帳簿のうち売上台帳(前掲乙八号証等に該当部分の写しの添付がある。)によれば、坂下の経理上次のように計上されたことが認められる。

(a) 昭和五八年九月二五日 健康型一五台 二四七万五〇〇〇円

一〇月五日 カタログ 五〇万〇〇〇〇円

右売掛金二九七万五〇〇〇円の支払として①ないし③の手形を受領。

(b) 昭和五九年一月二七日 太陽型四〇台 七六〇万〇〇〇〇円

同日 健康型一四台 二五九万〇〇〇〇円

同日 爽快型三〇台 四九五万〇〇〇〇円

右売掛金一五一四万円の一部支払として⑤ないし⑨の手形を受領。差引残高は九八四万円。

(c) 昭和五九年二月一〇日 太陽型二台 三八万〇〇〇〇円

同日 健康型六台 一一一万〇〇〇〇円

右売掛金を加えた差引残高は一一三三万円

一部支払として⑩の手形を受領。差引残高は六三三万円。

(d) 昭和五九年三月三〇日 健康型五〇台 九二五万〇〇〇〇円

同日 爽快型三一台 五一一万五〇〇〇円

同日 健康型五〇台 九二五万〇〇〇〇円

右売掛金を加えた差引残高は二九九四万五〇〇〇円。

右売掛金残金の支払として⑪ないし⑰の手形を受領。

なお、④の手形の受領の趣旨につき、乙山検事がこれを①ないし③の手形のジャンプ手形であると認定した点については、後に改めて検討する。

(3) 若干不明瞭な点の検討

まず、丙山へのホームサウナの売上げに関する右経理帳簿上の記載全般について、坂下本社においてこれが真実の売上げに基づくものと認識されていたことは右証拠等により認められるが、実際上、北関東営業所において右のような真実の売上げがあったのか、それとも売上げが仮装されたにすぎないのかという点については、後に改めて検討する。

ただ、坂下本社において真実の売上げがあったと認識していたという点に関しては、右売上台数を裏付ける仕入れの事実があったかどうかが問題となるが、これについては、まず、健康型一三五台、爽快型六一台が昭和五九年三月二六日までに秀朋産業から納入されていたことは前記(二)において認定したとおりである。他方、太陽型は秀朋産業の製品ではなく韓国からの輸入品であることが戊田の供述等により認められるところ、坂下が同型四二台を輸入した事実を直接裏付ける証拠資料は収集されていないものの、坂下においては、当初、韓国から輸入したホームサウナを販売する計画であったという証拠上認められる背景事情等に照らせば、右輸入の事実も特にこれを疑うべき事情はなく、その存在を推認し得ると考えて差し支えないということができる。

(四) 北関東営業所におけるホームサウナの廉価処分

(1) ディスカウントショップへの廉価処分の状況

《証拠省略》を総合すると、北関東営業所において、丙川は、昭和五九年三月頃から、従業員の甲田(開設の当初から採用)及び丁原(昭和五九年三月一日に藤沢の偽名で採用)に命じて、秀朋産業から仕入れたホームサウナを丙山の名でディスカウントショップ等に大量に廉価処分するようになったことが認められるところ、このうちで最も大口の処分先となったディスカウントショップ「ロジャース(社名・北辱商事株式会社)」に対する処分状況は概ね次のとおりであったことが、同社作成の請求書兼支払伝票並びに丙山名義の領収証により裏付けられている。

①三月三〇日 爽快型三〇台

健康型一〇台 計二五〇万円

②四月一四日 健康型一〇〇台 計五〇〇万円

③五月一七日 四〇台(機種不明) 計二〇〇万円

④五月一八日 六〇台(同右) 計三〇〇万円

⑤五月二五日 六〇台(同右) 計二一〇万円

⑥六月四日 二二台(同右) 計七七万円

計三二二台 合計一五三七万円

(2) 若干不明瞭な点の検討

まず、右各廉価処分に供されたホームサウナにつき、坂下において秀朋産業から各仕入れをした時期は、証拠上必ずしも明らかではないが、これについては、北関東営業所の丙川らは秀朋産業の製造工場において納品を受けたホームサウナをその日のうちに廉価処分先に直送するとは限らず、北関東営業所の事務所の隣室や運搬依頼先である運送会社の倉庫に一時搬入、保管の上、後日、契約が決まってから処分先に発送することも多かったことが証拠上認められるのであって、仕入品と廉価処分した商品の対応関係を特定するのは容易でないことが窺われる上に、本件犯行に係る昭和五九年五月一八日納品分のホームサウナ六〇台については、右④のとおり、同日中に処分先に直送、処分されたことが解明され、流通経路が特定されるに至っており、本件犯行の捜査自体は十分に尽くされていたということができる。

次に、右各廉価処分に供されたホームサウナの中に、前記(三)の(2)において認定した丙山への売上げとして計上された分が含まれているかどうかを検討すると、前記(三)の(3)において指摘したとおり、昭和五九年三月二六日までに秀朋産業から納品を受けたホームサウナはほぼ全て丙山に売り上げたものとして計上されているところ、その後右①の廉価処分までの間に新たにホームサウナの納品があったことを示す証拠はないから、丙山への売上分として計上されたうちの四〇台が右廉価処分に供されたと推認するほかなく、また、その後右②の廉価処分までの間に健康型六〇台の納品があったことは前記(二)(1)において認定したとおりであるが、右廉価処分に供された残る四〇台は、やはり丙山への売上分として計上されたものの一部であったと推認するほかない。これによると、坂下の経理帳簿に計上された丙山への売上げの少なくとも一部(約八〇台分)は、販売の実体を伴わない架空のものであったことが客観的に裏付けられているということができる。

なお、右ロジャースへの廉価処分の外にも、甲田や丁原によっていくつかの廉価処分先が開拓され、多数のホームサウナが廉価で処分されていることは証拠上明らかであるが、処分先への裏付け捜査により処分状況が客観的に裏付けられたのは、丁原から青木敏雄への廉価処分だけである。ただ、右青木への処分については、任意捜査の段階で判明していた昭和五九年四月になってからのものがある外に、強制捜査の段階になって、同年一月中にも丁原が大量の廉価処分を行い、少なくとも現金三五〇万円を入手していたことを示す証拠資料が収集されており、この後者の廉価処分の関係は、後に改めて検討する。

2  原告の本件における基本的立場の認定について

(一) はじめに

乙山検事は、丁原が丙山の代表取締役に就任した後も、原告において手形の振出権限を事実上独占し、丁原の承諾を得ることなく独自の判断で手形を振り出していたという事実を主たる根拠に、原告が丙山の実質的経営者であると認定したことが認められるところ、原告は、本件における具体的事情を前提にすれば、丁原が丙山名義を利判して行う活動に原告が関与していないことも十分にありうるし、逆に原告が丁原の活動とは無関係に丙山名義の手形を振り出すというのも不自然なことではないから、乙山検事の右認定は短絡的かつ皮相なものにすぎず、証拠上到底肯認し得ない旨主張する。

たしかに、原告指摘のとおり、丁原の代表取締役就任当時、丙山が現実の事業活動を行っていない休眠会社であったことについては、捜査段階から関係者の供述が一致しており、明らかな事実と認められるので、このことからすると、休眠会社の丙山において、そもそも「経営」という観念が成立するのかということ自体、問題であるということもできる。

ただ、「経営者」という表現にとらわれずに原告の立場を考えた場合、組織もなく、目ぼしい財産的基礎もない丙山のような会社において、現実的な価値のあるものといえば、会社名義の当座預金口座、なかんずく手形の振出権限をおいてほかはないと推論することに経験則上何ら不自然な点はなく、右権限を事実上独占している原告について、丙山の実権を握っているのは同人であると評価したとしても、それが経験則に照らして不合理な評価であるということはできない。原告が丙山の実質的な経営者であるという乙山検事の認定は、そのような意味で正当なものというべきである。

ところで、本件において原告に有罪と認められる嫌疑があったといえるかを判断するに当たっては、原告が右のような意味で丙山の実質的な経営者であると認められることそれ自体は重要でなく、核心的な問題は、坂下におけるホームサウナ販売事業をめぐって丙山が販売先として登場している点について、原告が、主として代金決済の面からこれに関与していたことを証拠上肯認し得るかどうかである。丙山における原告の立場についての乙山検事の前記認定を肯認しえないとする原告の主張も、正にこの点を問題にしているのであって、原告が、手形の振出権限を留保した趣旨につき、専ら融通手形(いわば金融の道具)として利用するためであった旨主張しているのは、本件における原告の主たる弁解、すなわち坂下が取得した丙山名義の手形も原告においては融通手形として振り出したものにすぎない旨の弁解を、より一般的な事実に引き直したものとみることができるのである。

そこで、坂下におけるホームサウナの取引に原告が主として代金決済の面から関与していたという事実を証拠上肯認し得るかどうかを検討する。

前記1の(三)において認定したとおり、坂下が取得した丙山名義の手形一七通は全て原告が振り出したものであるところ、このうちの一六通は、坂下本社において、北関東営業所が丙山に売り上げたホームサウナの代金支払の趣旨で受領されていることが認められる。このことだけをとってみても、原告が右手形一六通を振り出したのは、丙山が坂下から買い入れたホームサウナの代金支払のため(それが真意に基づくものか否かは別にして)であるという一応の推認が働くということができる。ところが、原告は、捜査段階からこの点を全面的に否認し、坂下の北関東営業所において丙川らがホームサウナを扱っていたことは全く知らず、丙山名義の手形は全て、丙川に請われるままに融通手形として振り出したものである旨弁解した(以下、これを単に「融通手形の弁解」という。)。

(二) 融通手形の弁解の信用性

原告の融通手形の弁解が成立する余地があるとすれば、それは、本件の公判手続において弁護人が主張したような、丙川において、原告にはホームサウナの件を全く告げずに、手形を融通して欲しい旨頼み込んで融通手形を受け取っていただけであるにもかかわらず、戊田に対しては、丙山にホームサウナを販売した代金として受け取ったものであるように装って右手形を渡していたという想定(弁護人は「丙川の陰謀」と称した。)が、単なる想定ではなく、証拠上の裏付けを持つ場合に限られるというべきである。そこで、このような観点から、更に本件の証拠関係を検討する。

(1) ロイヤルホテルにおける戊田との会合の有無

右のとおり、原告の振り出した丙山名義の手形一七通のうち一六通は、坂下本社においては、北関東営業所が丙山に売り上げたホームサウナの代金支払の趣旨で受領されたものであるが、右手形一六通が丙川を介して授受されたものであることは、関係者がほぼ一致して供述しており、明らかに認められる事実である上に、右手形一六通の授受に関して、原告と坂下本社の戊田らとの間では直接の交渉が一切なかったこともまた、証拠上認められる(戊田の供述によっても戊田が原告と直に接触したのは三回だけであり、いずれも右手形一六通の授受とは直接関係のないものである。)。このことからすると、原告において融通手形として振り出した手形が、丙川を介して戊田に対しては支払手形として交付されるということも、全くありえないことではない。

しかしながら、坂下が取得した丙山名義の手形一七通のうち残る一通(別紙三記載の④の手形)については、それが授受された経緯において戊田と原告の間で直接の接触が図られたことを示す戊田の供述がある。すなわち、捜査段階において戊田は、右手形を、既に受領していた丙山名義の手形三通(別紙三記載の①ないし③の手形)のジャンプ手形として受領したものであることは当初より一貫して供述していたことが認められるところ、これを受領した経緯については、前記一の中で詳細に認定したとおり、丙川の逮捕・勾留後の平成二年九月二六日の事情聴取の際に初めて具体的な供述を行い、この中で、昭和五九年一月六日に群馬ロイヤルホテルにおいて丙川とともに原告と会った際に、手形決済資金として現金一〇〇万円を原告に渡したところ、原告からは右ジャンプ手形を差し出された旨供述し、その後本件公訴提起に至るまで右事実を一貫して供述していたことが認められる。戊田の供述どおりの会合のあった事実が認められれば、原告は、自己の振り出した丙山名義の手形が坂下におけるホームサウナの取引の代金決済に供されていることを認識しつつ、戊田との間で右手形のジャンプに関するやりとりをしたことが強く推認されるから、融通手形の弁解の信用性を否定する有力な事情が加わることになる。

そこで、昭和五九年一月六日にロイヤルホテルで原告と会合を持った旨の戊田の右供述の信用性を検討すると、原告の指摘のとおり、戊田の供述調書の中で右会合の件に具体的に触れるようになったのは、平成二年九月二六日付け供述調書が最初であり、それ以前の任意捜査の段階で作成された供述調書四通や告訴状の中には右会合の件に具体的に触れた供述はなかったことが認められるところ、たしかに、捜査の中途までは長期間にわたって触れられることのなかった事実につき、その体験者とされる者が唐突に具体的な供述を始めるというのは、当該事実が捜査において重要であればある程不自然なことであって、その供述を信用することには慎重にならざるをえない面があるということができる。しかしながら、本件における具体的な捜査の経過をみた場合、前記一において認定したとおり、当初大宮警察署は、業務上横領告訴事件として本件の捜査を進めており、丙川らのしたホームサウナの廉価処分行為の特定及びその横領行為性の解明が捜査の中心となっていたことが認められるのであって、右のような捜査を進める上では、ホームサウナの廉価処分行為が本格化する以前に坂下が取得した丙山名義の手形について、その取得の経緯を解明することは、必ずしも重要ではなかったとみることができる。ところが、その後強制捜査の段階に入り、逮捕された丙川の供述から本件の犯行の発端に丙山名義の手形決済が関係しているという事実が浮上するとともに、本件を取込み詐欺事犯として構成し直すことが捜査上の検討課題に加わったため、坂下が当初取得した丙山名義の手形について、その取得及び決済(ジャンプ)の経緯を解明することが捜査上極めて重要性を帯びるに至り、戊田からもこの点に的を絞った事情聴取を改めて行ったことが認められる。このように、本件においては、坂下が当初取得した丙山名義の手形三通が決済(ジャンプ)された経緯を解明することの捜査上の重要性が、捜査の進展により決定的に変化したということができる上に、任意捜査の段階においても戊田は、ロイヤルホテルにおいて右会合があったことと矛盾する供述をしていたわけではなく、丙山名義の手形の取得及びその決済状況の関係を中心に作成された供述調書の中では、「手形のジャンプの時など丙山との金銭的な関係は原告が相手であった。」旨供述していたことは、前記一の2(一)において認定したとおりである。以上の事実に照らせば、ロイヤルホテルにおける右会合の件について戊田が捜査の中途から具体的に供述するようになったことには、それなりに合理的な理由があったということができるのであって、この点を供述の信用性を低下させる事情として特に重視しなかったとしても証拠評価上の誤りとまではいうことができない。

次に、戊田の供述内容の信憑性についてみると、戊田は右会合の際の原告とのやりとりについて、原告の差し出したジャンプ手形に印紙が貼付されていなかったので、その日はこれを受け取らなかったことなど、優れて特徴的な事実を具体的に供述しているところ、原告は、印紙の点をめぐる右のやりとりを含めた戊田及び原告の当日の言動には不自然・不合理な点が多々認められることを指摘し、右供述を信用し得ないことの一つの理由としている。原告の指摘する点のほとんどは、供述内容が客観的証拠と矛盾しているという意味での不合理さを突いたものというよりはむしろ、社会生活上の経験則に照らしてみた時の言動の不自然さを捕らえたものとみることができるところ、供述内容がそのような意味で不自然であることは、供述の信用性に疑いを生ぜしめることも多いであろうが、逆に特異な情況を具体的に描写しているとして、ありきたりの内容に比べ供述の迫真性が高められることも稀ではないというべきであって、本件における戊田の供述について、供述に臨場感があり信用性が高いという評価に達したとしても、それが不合理であるとまでいうことはできない。

更に、右会合の存在を裏付ける証拠として、戊田から当日のロイヤルホテルの喫茶店における喫茶代の領収書が収集されており、これによれば、当日戊田を含む三名の人物が右場所において会合したという事実は客観的に裏付けられているということができるところ、右領収書自体に信憑性を疑わせるような点はなく、右領収書が長期間保存されていた点も戊田が会社経営者であることに照らせば格別不自然なことではない。

最後に、捜査段階において、丙川からは戊田の右供述に符合する内容の供述が得られていないという点は、当事者間にも争いがなく、証拠上も明らかである。しかし、この点については、戊田の供述の信用性を肯認するために、これと符合する丙川の供述が存在することまで必要であるというべきかは問題である。けだし、本件の主犯格の丙川については、一般論として、罪責軽減の動機から虚偽の自白をするおそれが強いといえても、本件取込み詐欺の被害会社の代表者の戊田については、殊更虚偽の供述をするような一般的危険性はない上に、本件に特有の具体的危険性の存在を窺わせるような事情も証拠上は全く認められないということができるからである。原告は、戊田の供述につき、当初甲田から得た情報により原告が本件の共犯者であるという強い予断を抱いてしまったことに由来する問題性がある旨を強調するが、仮に右のような予断の働くことが否定し得ないとしても、それが虚偽の事実をねつ造してまで原告を罪に陥れようとする程に強いものとは到底考えることができない。

以上検討したところによれば、乙山検事が、昭和五九年一月六日にロイヤルホテルで原告と会合を持った旨の戊田の供述の信用性を肯定し右会合の事実を認定したことは、合理的な証拠評価に基づくものというべきであって、これを誤った心証形成ということはできない。

(2) 北関東営業所ないしホームサウナ取引に関する原告の供述の信用性

原告の融通手形の弁解は、坂下の北関東営業所において丙川らがホームサウナを扱っていたことを全く知らなかったという事実を(不可欠の要素とはいえないまでも)一つの重要な前提としているというべきであるところ、この点に関する原告の捜査段階における具体的な供述としては、「坂下が北関東営業所を開設したことも同営業所において丙川らがホームサウナを扱っていたことも全く知らなかった。」旨供述した部分があることは認められる。

しかし、原告の右供述については、丙川、丁原及び甲田の供述がこれと真っ向から対立しているだけではなく、前記一の6(六)において認定したとおり、大宮警察署による裏付け捜査の結果、北関東営業所の元営業部員町田敏美及び同営業所の元事務員町田礼子から、原告が同営業所に頻繁に出入りして丙川と接触していたことを裏付ける供述を得ており、右両名の立場の中立性を疑うべき事情が証拠上は全く窺われないことに照らせば、その供述の信用性に疑問をいれる余地はほとんど考え難いということができる。そして、原告自身も、丙川との関係について、同人と昭和五七年頃知人の紹介で知り合い、その後接触を重ねるうちに親しくなっていったこと、昭和五八年中には、丙川が前橋市内に引っ越してくる際にアパートの世話等をしてやったり、丙川から韓国製ホームサウナ五台を買い取って、知人に有償若しくは無償で譲渡したこともあったこと、(北関東営業所において既にホームサウナの販売業務を始めていた)昭和五九年に入ってからも、丙川との間では、有限会社群馬芸能企画を丙川通商に商号変更して丙川が代表取締役に就任する件等で接触が続いていたことなどを捜査段階から一貫して認めており、原告と丙川の間で右のような接触が図られていたとすれば、丙川が、坂下の北関東営業所長の地位に就いてホームサウナの販売業務を始めたという自己の社会活動上の基本的な事実を原告に一切告げなかったはずはないとの心証を抱くに至るのも、むしろ自然なことというべきである。なお、前記一の3(二)において認定したとおり、任意の取調べの段階では、原告は、丙川らが北関東営業所という事務所を開いてホームサウナの販売を始めたことは知っている旨供述していた。

右のような証拠関係に鑑みて、乙山検事が、「坂下が北関東営業所を開設したことも同営業所において丙川らがホームサウナを扱っていたことも全く知らなかった。」旨の原告の供述はこれを信用することができないと判断したとしても証拠評価として合理性を欠くということはできない。

(3) 坂下の丙山へのホームサウナの売上げの真偽

原告は、坂下が取得した丙山名義の手形一七通について、各手形の記載事項を相互に比較対照してみると、そこには、継続的な商品売買取引において商業手形として授受されたものとは到底考えられないような不自然・不合理な点が多々認められることを指摘し、このことを融通手形の弁解の合理性を支える有力な事情としている。たしかに、原告の指摘するように、商品の継続的な卸販売取引における手形による代金決済の通常の在り方からすれば、右手形一七通(うち特に別紙三記載の⑤ないし⑰の一三通)の内容は、支払期日が取引の時間的順序に則することなく無秩序に定められていたり、右一三通中の一二通は同年の六月と七月に一挙に期日が到来し、六月に二八一四万円、七月に一一二六万五〇〇〇円という多額の決済をすることになるなど、振出人(卸販売先)において仕入れた商品の売上げにより手形を決済することを予定して振り出したとは考え難いという点で、極めて不自然な内容であるということができる。しかしながら、右のような不自然さは、右手形一七通が融通手形として振り出されたと考えなければ説明し得ないものではないのであって、手形振出人において相手方(卸販売元)との正常な取引関係を維持発展させる意思がなく、将来不渡りとなることを予見しつつ手形を振り出していたことに由来するという推論も十分に成り立ち得るというべきである。

そこで、右の点を踏まえて、右手形一七通の振出人である丙山への売上げとして坂下の経理帳簿に計上されている内容を改めてみると、前記1の(三)(2)において認定したとおり、丙山に対して、昭和五九年一月二七日には八四台、同年三月三〇日には一三一台ものホームサウナの売上げがあったことが坂下の帳簿に計上されているにもかかわらず、丙山におけるホームサウナの販売実績についてみると、同社がホームサウナを正規の販売価格で売り上げた実績があることを裏付ける証拠資料は、全くないことが認められるのであり、他の証拠関係も併せ勘案すれば、丙山が正規の販売価格で売り上げたホームサウナは一台もなかったことすら推認し得るのである。しかも、前記1の(四)(2)において検討したとおり、秀朋産業からの仕入れ状況に照らせば、丙山への売上げとして計上されたホームサウナのうちの少なくとも一部は、ロジャースへの廉価処分に供されたことも推認されるのである。その他、丙山が大量のホームサウナを独自に保管することは、人的にも物的にも不可能であったと認められることなどの諸事情を総合考慮すれば、少なくとも昭和五九年一月二七日以降の売上分として計上されたホームサウナについては、北関東営業所長の丙川において、販売の実績も能力もない丙山から大量の追加注文があった旨戊田に申し向けることにより、同人をして秀朋産業から坂下に仕入れさせたものであって、戊田に対して、更に、予定どおりこれを正規の卸売価格で丙山に売り上げた旨架空の報告をするとともに、売上代金の決済についてはそのほとんどが決済の見込みのない丙山名義の手形を差し入れていたという概略的な事実を、合理的に推認することができるというべきである。そうすると、丙山名義の前記手形一七通のうち右の架空売上分に対応する一三通(別紙三記載の⑤ないし⑰の手形)は、そもそも正常な継続的卸販売取引を前提としたものではなく、取引が正常に行われたことを戊田に信用させるためのものにすぎなかったのであるから、正常な取引の存在を前提とすれば不自然な内容を有するのも、むしろ当然ということができる。右手形一三通の内容の不自然さはこのような事情に由来しているとみることにも十分に合理的な根拠のあることであって、原告が右手形一三通を融通手形として振り出したという事実を前提としなければ説明し得ないものではなく、原告が丙川と意思を通じて右手形一三通を振り出していたという推論の合理性がこれによって否定されることもないというべきである。

なお、坂下の取得した丙山名義の手形のうちの残る四通については、別紙三記載の④の手形を振り出した経緯の点は前記(1)において検討したとおりであり、別紙三記載の①ないし③の手形の関係は後に改めて検討する。

(4) 手形の決済の経緯

前記1の(三)(1)において認定したとおり、坂下の取得した丙山名義の手形一七通のうち支払期日の到来の早い順に五通の手形(別紙三記載の①ないし⑤の手形)が決済されているので、右各手形が決済されるに至った具体的な経緯の関係も、融通手形の弁解の合理性を検討する上で重要な間接事実を提供するものということができる。

そこで、順次みてゆくと、右のうちまず①及び②の手形については、決済資金を提供したのが戊田であることは証拠上明らかであり、捜査段階で収集済みの振込金受取書(前掲乙九号証等に写しの添付がある。)によれば、具体的には昭和五八年一二月二九日に坂下名で原告の預金口座に一九七万四二〇〇円の振込送金があったという事実が認められるとともに、振込手数料八〇〇円を合計すれば右手形二通の額面合計額になることも明らかである。この経緯について、戊田は、「丙川から、『原告が期日までに決済資金を作ることができないので手形をジャンプしてもらえないか。』と頼まれ、既に手形は銀行に割り引いてもらっていたので、原告にその決済資金を提供することにした。」旨供述するとともに、振込送金額が額面合計額から振込手数料分を控除した額になっている点については、「好意で振り込んでやるのだから当然と思った。」旨供述していた。次に③の手形についても、戊田は、同様の理由で昭和五九年一月六日に現金一〇〇万円を原告に提供した旨供述しており、その具体的な状況は、前記(1)において検討したとおりである。戊田の右供述のうち、右各手形を銀行に割り引いてもらっていたという点については、捜査段階において右各手形の写しを入手したことが認められないため、客観的な裏付けのないままであったが、供述全体についてみれば、内容の信憑性の面で特に不自然な点があるわけではない上に、右供述に明確に反する内容の証拠があったわけでもないことからすると、乙山検事がその信用性を疑わなかったことには、証拠評価上の誤りはないというべきである。

次に、④の手形については、捜査段階においては入手済みの入金伝票によれば、昭和五九年二月一〇日に丙山の当座預金口座に三〇〇万円の入金があったことが認められ、これについては、前記一の7(四)において認定したとおり、原告の妻甲野花子から、右入金伝票の記載は自分の字のようなので原告から頼まれて入金手続をしたのだと思う旨の供述が得られており、右供述に反する証拠もなかったことからすると、右入金手続は、原告が妻に依頼して行ったと認めるよりほかないということができる。なお、右決済資金の三〇〇万円が調達された経緯については、後に改めて検討する。

最後に、⑤の手形については、捜査段階において入手済みの振込依頼書によれば、昭和五九年五月三一日に丙山の名で前橋信用金庫片貝支店から丙山の当座預金口座に一〇〇万円が振込送金されたことが認められるところ、これについては、後に検討する本件犯行による利得金の分配の関係で原告に渡ったとされる一〇〇万円が右決済資金提供の趣旨であったかのような供述が、右振込依頼書の入手前には丙川及び甲田からなされていたが、前記一の7(一)において認定したとおり、右振込依頼書入手後の取調べにおいて、丙川は、原告らから泣きつかれて支払期日の当日か前日頃に現金一〇〇万円を決済資金として原告に渡した旨供述するに至った。丙川の右供述には、従前の供述との整合性の点などからみて疑問を差し挟む余地がかなりあると言わざるをえないが、原告の妻甲野花子は、右振込依頼書の記載が自分の字であることは否定したものの、振込依頼先の片貝支店の場所は良く知っており、原告の経営する「ボンソワール」の当座預金口座も開設されていた店である旨供述しており、右振込送金手続も原告かその使者が丙山の名で行った可能性が高いということはできるのであって、少なくとも、右送金手続上、右手形が融通手形であったことを窺わせるような事情があったといえないことは明らかである。

なお、以上の手形の決済の関しては、前記一の7(三)において認定したとおり、原告は、丙川の依頼で戊田に交付した融通手形に関して、後日戊田から「何月何日に送金しました。決済をお願いします。ありがとうございました。」という内容の礼状の葉書を受け取った旨供述していたが、右供述の裏付け捜査の必要性についてみると、右供述とともに原告は、右融通手形とは前記④の額面三〇〇万円の手形のことである旨供述していたところ、右手形の決済に関して戊田から三〇〇万円の送金があったことを窺わせるような証拠は全くなく、供述に客観的な裏付けが欠けていた上に、右葉書について原告はそれがどこにあるのか分からないとも供述しており、捜査をしてもそれを収集し得る見込みは薄かったと考えられることから、この点の裏付け捜査の必要を認めなかったとしても、捜査上の合理性を欠くとはいうことができない。

(5) 手形を振り出した経緯に関する原告の供述内容

前記一の7(三)の中で詳細に認定したとおり、捜査段階において、原告は、坂下が取得した丙山名義の手形を融通手形として振り出した経緯について、「うち一、二通は丙川の口利きで戊田に貸したものであり、上野で戊田と直接会って渡している。残りは全て、丙川から手形を貸して欲しいと言われて振り出したものであり、丙川がそれを何に使うのかは分からなかった。」旨供述していた。

そこで、右供述自体の信用性につき、まず、坂下の取得した丙山名義の手形一七通との対応関係をみると、既に認定したとおり、原告は三逵刑事による取調べにおいて右供述をした際、同刑事から、大宮警察署において既に入手していた決済手形二通(別紙三記載の④及び⑤の手形)の写し並びに不渡手形一二通(同記載の⑥ないし⑰の手形)を示されて、戊田に直接交付した融通手形とは右のうち④の手形であり、その余の手形は全て丙川に交付したものである旨供述した。このうち、④の手形を戊田に融通手形として交付したという点は、前記(1)の中で検討した戊田の供述と真っ向から対立するものであって、そこで検討した戊田のこの点に関する供述の信用性に照らせば、乙山検事が原告の供述を信用することができないとの判断に至ったとしても、証拠評価として合理性を欠くとはいうことができない。なお、この点に関しては、以上の手形の外にも、捜査段階において写しを入手していなかった別紙三記載の①ないし③の手形が存在することを原告が認識しつつ右供述をしたのかどうかが問題となるが、原告は、少なくとも三逵刑事の取調べの際には、戊田に融通手形を交付したのは昭和五八年一二月末頃のことであり、それ以前の同年一〇月にも丙川に対しては融通手形を三通位振り出している旨供述していたのであり、このことからすれば、原告が戊田に交付したのは右④の手形である旨供述したことが右①ないし③の手形の存在を失念したための勘違いではないかということを、可能性として考慮すべきであるとはいうことができない。

次に、丙川に手形を貸して欲しいと言われて十数通の手形をまとめて振り出した旨の供述部分については、相手の丙川から使途を全く告げられることなく十数通もの手形をまとめて振り出すなどということは、取引通念に照らして到底考え難い不自然な行動であるとの心証を抱くのも、むしろ自然なことというべきであるところ、原告の供述調書の記載上、捜査段階においては、この点に関して原告から納得のゆく内容の具体的な供述を得られなかったことが認められるのであるから、乙山検事が原告の右供述を信用することができないとの判断に達したとしても、証拠評価として合理性を欠くということはできない。本件の公判手続において、原告は、この点に関して、「丙川から丙川通商の手形の振出権限を担保に供されたので、それと引換えに丙山の手形を貸すことにした。」旨供述し、これを裏付ける証拠として弁護人からは当座取引申込書等が提出されたことが認められるが、捜査段階における取調べの際に原告が右のような具体的な供述をしていたことを認めるに足りる証拠はない上に、入手済みの他の証拠資料の中にも右供述に沿う事情を窺わせるものがあったとは認められないから、この点の解明が不十分であったとしても、通常なすべき捜査を怠ったものとはいうことができない。

なお、融通手形の弁解の合理性に関する主張として、原告は、検察官が十分な捜査をし、関係証拠を子細に検討していれば、原告は手形を融通手形(いわば金融の道具)としてしか利用したことがなく、丙山の手形についてもその例外ではないという事実を認めることができた旨主張しているので、この点を検討すると、たしかに、丁原が代表取締役に就任した当時の丙山のような休眠会社の名義の手形については、取引を伴わない融通手形としてしかこれを利用する余地はないという推論が可能であることは否定することができない。ただ、それは、手形を取引上の代金決済に利用する機会が事実上存在しないからにすぎないともいえるのであって、仮に原告が日頃は手形を専ら融通手形として利用しているとしても、原告の振り出した丙山名義の手形は融通手形として振り出されたはずであるという推論が高度の蓋然性をもって成立するとまでいうことはできず、具体的状況によっては、これを別の趣旨で振り出すことが可能であることはいうまでもない。もっとも、これを本件についてみると、坂下が取得した丙山名義の手形一七通については、前記(1)の中で検討した一通を除けば、それらが振り出された具体的経緯を示す供述証拠は原告の右供述しかないのであって、原告から右各手形(一六通)を交付されたことが証拠上明らかな丙川からは、捜査段階においてこの点の具体的な供述を全く得ていないことが、前記一の中で認定した丙川の各供述調書上から明らかである(平成二年九月二八日付け供述調書においては、「昭和五九年二月中旬頃から正規の商売ができないということでバッタ売りをするようになったが、戊田に対しては正規の卸値で丙山に販売しているように見せかけるため、約束手形を作らせて本社に渡していた。」旨の概略的な供述が得られており、翌日の乙山検事による取調べの際にも、「丙山の手形は、原告が丁原名義で切って自分に渡してくれた。」旨の供述が得られていたことは窺われる。ところが、その後の供述調書にこの点の具体的な供述は見当たらない。)。その意味では、この点の捜査には不十分な面があったといわざるをえないが、既に検討した諸事情を総合考慮すれば、右各手形が授受された当時の状況としては、丙山名義の手形を(真意に基づくかどうかはともかく、外観上は)坂下の丙山へのホームサウナの売上代金決済のためとして振り出すことが可能であり、かつ(特に丙川からこれを)期待される状況にあったとみることには合理的な根拠があるのであって、そのような状況下で、原告が丙川と意思を通じて、右の趣旨で丙山名義の手形を振り出すことは、原告が日頃は融通手形として手形を利用していることと何ら矛盾しないということができる。

なお、本件の公判手続において、原告が本件の他にも何らの見返りもなく多数の融通手形を振り出していたことがあると主張し、その裏付け証拠として、弁護人から、本件犯行後五年以上経過してから振り出された丙川通商代表者甲野太郎名義の約束手形の写しが提出され、刑事裁判所も原告の右主張を採用したが、原告が捜査段階において右の裏付け捜査を必要とするような弁解をしていたことは窺えない(弁論の全趣旨)から、この点に関し、捜査官において通常なすべき捜査を怠ったものとはいえない。

(三) まとめ

以上検討したところからすれば、本件公訴提起時に、乙山検事において、原告の融通手形の弁解には関係証拠に照らして合理的な裏付けがないものとしてこれを排斥し、原告は、真意に基づいてかどうかはともかく、坂下の丙山へのホームサウナの売上代金の決済に供されることを認識した上で、丙山名義の手形(一六通)を振り出していたことが関係証拠により合理的に推認されると判断したとしても、心証形成として不合理ではないというべきである。

3  具体的な共謀関係の認定について

(一) はじめに

右のとおり、原告が坂下の丙山へのホームサウナ売上代金の決済に供されることを認識した上で丙山名義の手形一六通(別紙三記載の④の手形を除く一六通の手形)を振り出していたと推認することには合理的な理由があり、かつ、前記2の(二)(3)において示唆したとおり、北関東営業所における丙川の行動は、遅くとも昭和五九年一月二七日以降の丙山への売上分として計上されたホームサウナを仕入れた頃から取込み詐欺的な様相を呈するようになったことからすると、その頃丙川と原告の間で本件の一連の犯行に至る何らかの計画が企てられたのではないかという可能性を念頭に事案の解明を進めるのは、捜査方法としては不合理ではないということができる。ただ、本件の度重なる取込み詐欺行為が真に一連のものということができるかどうかについては、坂下の北関東営業所において本社の戊田から昭和五九年三月三〇日限りで丙山への卸販売の中止を命ぜられ、それ以降は丙山以外の架空の販売先をねつ造して取込み詐欺を続けていたという証拠上明らかな事実に照らして問題がある。特に、本件犯行は同年四月以降のものであって、丙山が卸販売先として直接の関係を有しているわけではなく(したがって、売上代金の決済のために丙山名義の手形が利用されたということもない。)、単に廉価処分の際にその名義が利用されたというだけにすぎないため、一連の犯行への現実的な関与としては丙山名義の手形を売上代金の決済の用に供していたという嫌疑が認められるにすぎない原告については、本件犯行への具体的な関与を認め難いということができるからである。

ところで、本件において原告と丙川らとの共謀関係を直接的かつ具体的に裏付ける証拠は、前記一において詳細に認定したとおり、「昭和五九年一月二五日前後頃群馬ロイヤルホテルにおいて、丙川と原告及び丁原の間で本件の一連の取込み詐欺を行うについての共謀が成立した。」旨の丙川の供述及びこれに沿う内容の丁原の供述、並びに「同年五月一八日に本件犯行によって得たホームサウナを同日中に廉価処分して換金した利得三〇〇万円の中から、原告に一〇〇万円を分け与えた。」旨の丙川及び丁原の供述(甲田の供述もこれに沿う。)であるから、右に指摘したような問題点を踏まえつつ、以下これらの証拠価値について検討する。

(二) 具体的な共謀状況に関する丙川の供述の信用性

(1) 丙川の自白の捜査上の重要性と危険性

坂下の北関東営業所における一連の犯罪行為について、犯行に至る経緯、犯行の動機、犯行計画等を解明する上では、後日被害を覚知するまで犯行を知らなかったと認められる戊田、坂下におけるホームサウナの取引自体知らなかったとして本件への関与を全面的に否認している原告、丙川の手足として廉価処分を実行していたにすぎないと認められる甲田らから有益な供述を得られる見込みは乏しかったとみることができるから、逮捕直後から被疑事実を認めていた本件の主犯格の丙川から得られる自白が最重要の証拠と目され、これを中心に捜査が進められたのも当然のことといえる。しかしながら、他方で、原告の指摘するように、本件の主犯格の丙川の自白には、他に責任を転嫁して自己の刑責を軽減しようとの動機から、一般的にいって虚偽の内容が含まれる危険性が高いということにも十分留意する必要があるということができるのであって、その供述内容の信用性に対しては、当然に慎重な検討が要請されていたというべきである。

(2) 供述内容の変遷について

具体的な共謀状況に関する丙川の供述は、前記一の4以下において詳細に認定したとおりであるが、右供述の内容には捜査の過程でかなり顕著な変遷のあったことが認められるので、その変遷の経緯に合理的な理由があったかどうかを検討する。

まず、原告の指摘するように、丙川は、逮捕後送検前の取調べにおいては、本件の犯行に至る概要として、「丙山の丁原社長から『手形の決済ができない。何とかお願いします。』と頼み込まれてしまい、甲田と相談の上でサウナをバッタ売りして金を作り、手形を決済した。」旨供述していたにもかかわらず、その後、右供述を変更して、「原告と丁原が事務所に来て、ジャンプ手形が決済できないと言い出したので、ロイヤルホテルに場所を移して話をするうちに、原告から『そんな決済金なら、丙川さんの方でどんどん品物を回してくれればバッタしてお金はいくらだって出来るから、品物を回してくれ。』などと言ってきたので、私もバッタ売りの決心をした。」旨供述するに至り、その後は右供述を大筋において維持していることが認められるところ、内容の面では、犯行の直接の契機という重要な事項の供述の中で、きっかけとなる話を持ち掛けてきた相手が誰であったかという基本的な部分につき、「丁原が頼み込んできた。」との内容から「原告と丁原が話に来て、その後原告が具体的な話を持ち掛けてきた。」との内容へと顕著な変遷があったにもかかわらず、右変遷の理由については丙川の供述調書中に何ら供述が見当たらず、その余の証拠からもこれを合理的に説明し得るような事情は窺われない。たしかに、送検前に警察署において概略的な自白を得る段階では、被疑者の記憶の喚起も十分ではなく、取調官においても供述と客観的な証拠とを突き合わせた上で矛盾点につき十分な追及をする余裕がないことから、重要な事実についてもあいまいな部分を残した供述調書が作成される可能性が高いということはできるが、他方、本件のような共犯事件で、被疑者が自己の嫌疑について一貫して自白している場合には、自己の罪責を軽減する意図で虚偽の供述をする可能性は逮捕直後よりもその後時日が経過してからの方が大きいとみることにも十分理由のあることであって、内容の点からみて後者の場合に当たる可能性(後日、責任の一部を原告に転嫁する意思を生じ、虚偽の供述をした可能性)も十分に考えられる本件においては、いずれの場合に当たるかを確認するためにも、右変遷の理由については丙川から供述を得ておくべきであったということができるから、その意味では、捜査段階において右変遷の点への配慮に不十分な面があったことは否めない。ただ、供述内容の変遷という点も、供述の信用性を判断するための一つの有力な資料にすぎないのであるから、変遷後の新供述内容の合理性、信憑性等をも総合的に考慮して、その信用性を肯認し得るとの判断に達したとしても、それが直ちに不合理であるということにはならないのはもとより当然である。

次に、丙川は、群馬ロイヤルホテルにおいて原告と共謀をした時期について、捜査段階の中途までは、それが昭和五九年二月初旬頃(具体的には二月五日前後)のことであった旨一貫して供述していたが、起訴直前の平成二年一〇月九日になって、右日にちを昭和五九年一月二四日から二六日の間頃と訂正する旨申し立てるに至ったことが認められるところ、右訂正に至った経緯は、右調書の記載によれば、斉藤刑事が丙川に関係資料を示した上で共謀直後の具体的な経過について追及をした結果、昭和五九年一月二七日に坂下が秀朋産業からホームサウナ五〇台を仕入れるより前に共謀を遂げていたのでないとつじつまが合わないことが判明したためであると認められる。これは、取調官の追及を受けた結果客観的な事実に沿う形に供述内容を一部訂正したということであるから、変遷に合理的な理由があることは明らかであり、訂正後の供述内容の信用性を肯認する上で特に障害となる事由ということはできない。

更に、丙川は、共謀の動機ないし目的について、当初は、ジャンプ手形(別紙三記載の④の手形)の決済資金を廉価処分によって調達するため取込み詐欺を行うことを共謀した旨供述していただけであったが、その後、丙川と原告は新会社を開設するための資金を調達するという目的をも有していた旨の供述が徐々に具体化し、平成二年一〇月一五日の斉藤刑事の取調べの際に右新会社とは丙川通商のことである旨供述するに至り、最後に、乙山検事が、「丙山はいずれ潰してしまい、手形の期日がどんどん来る昭和五九年六月の中頃までにできるだけ商品を坂下から出荷させ、これをバッタで現金化して丙川通商の開業資金に充てるという犯行計画を企てた」旨の供述を得るに至ったことが認められる。これは、取調官が丙川を取り調べることによって、当初、犯行の直近の動機に関する共謀の状況についての供述を得ることができたが、その後、更に、一連の犯行全体を貫く動機ないし目的の有無を解明すべく取調べを重ねたところ、新会社を設立の上で共同事業を営むための資金を調達するという計画を有していた旨の供述を得るに至ったという経過を辿ったものとみることができるのであって、取調べの進展に伴い供述の内容が深化・発展していったという意味で、供述の変遷の経過自体には合理的な理由があったということができる。

(3) ジャンプ手形の決済資金の調達という動機について

そこで次に、共謀の具体的状況に関する丙川の供述内容の合理性・信憑性について検討する。

まず、犯行の直近の動機とされたジャンプ手形の決済資金の調達に関する部分についてみると、原告は、この部分についての丙川の供述を信用することができない理由として、①そもそも、丙山と坂下との最初の取引があったという不可欠の前提事実自体が証拠上認められないこと、②逆に、検察官の認定を前提にすれば、丙川の供述中にある原告の言動は当時の具体的な状況に照らしていかにも不自然であることの二点を指摘している(なお、ロイヤルホテルにおける戊田との会合の有無については、前記2の(二)(1)において検討したとおりである。)。

右のうち、①の丙山と坂下との最初の取引があったという前提事実の有無についてみると、原告は、まず、右取引において丙山に売り上げたとされるホームサウナ一五台の流通経路及び保管場所の点が全く解明されておらず、取引が存在したことの客観的な裏付けがないことを主張して、右取引の存在を認定し得ないことの有力な根拠としている。

そこで、このうち、ホームサウナ一五台の流通経路の点についてみると、坂下の北関東営業所が昭和五八年一二月中に秀朋産業から健康型ホームサウナ一五台を仕入れたという事実を出荷証明書等の客観的な証拠資料により認め得ることは、前記1の(二)(2)においてみたとおりであり、一方、坂下の経理帳簿上、昭和五八年九月二五日に坂下が丙山に対し健康型ホームサウナ一五台を売り上げた旨の記載があることもまた前記1の(三)(2)においてみたとおりである。坂下から丙山への右売上げが真実であるとすれば、丙山に売り上げたとされる健康型ホームサウナは、秀朋産業からの右昭和五八年一二月中の仕入れに係る一五台分をおいてほかにないとみるべきところ、卸販売先への売上げが製造元からの仕入れに対して時期的にかなり先行する形で計上されている点で、右売上げには不自然な面がある上に、右売上げがあったという時期自体、坂下において北関東営業所を開設するより以前のことであるという事情もあるため、右売上げとして計上された卸販売取引については、捜査段階においても、右のような経過の特異性を含めて事実関係をできる限り解明することが要請されていたというべきである。

ところが、前記一の5(二)において認定したとおり、平成二年九月二六日の戊田からの事情聴取においては、この点について、昭和五八年九月二五日に見本品という趣旨も兼ねてホームサウナ一五台を販売した旨の供述が得られただけであって、右取引の経過についての具体的な供述は得られておらず、その他の証拠によっても、この点の解明は十分になされていないことが認められる。ただ、前記2の(二)(1)の中で既に指摘したように、本件の捜査が丙川に対する業務上横領告訴事件として進められていたという経緯に鑑みれば、任意捜査の段階でこの点を解明するに至らなかったことには、やむをえない面があったということはできるのであって、そうすると、右取引から丸七年が経過した時点でなされた戊田からの右事情聴取の際には、供述の正確性を担保する客観的な証拠である坂下の経理帳簿上のこの点に関する記載をもとにした供述を求めるにとどめるというのも、証拠資料の収集の上で不合理なことではない。そして、戊田から右の限度で供述が得られた以上、丙川を取り調べた際に同人から右取引の経過について具体的な供述を得なかったとしても、やはり、捜査に懈怠があったということはできない。右ホームサウナ一五台の保管場所が解明されていないという点も、これと同様の意味から、当然なし得る捜査を怠ったということはできない。

次に、原告は、右取引における健康型ホームサウナの単価がその後の同型ホームサウナの卸売価格と比較して割安であったという点、及び右取引においてカタログ代として一部五〇〇円ずつ徴収されている点がいずれも不自然であるとして、右取引における売上代金の内訳は手形の額面金額に後から合わせるという作為があった疑いが濃厚である旨主張する。しかしながら、戊田の供述によれば、右取引において販売されたホームサウナが見本品という趣旨を兼ねて販売されたと認められることは既述のとおりであるから、本来の卸売価格より割安の単価であったとしてもさほど不自然ではなく、また、捜査段階においてこれも収集済みであるが、総発売元として丙山の名を記載したカタログが作成されていることからすれば、卸販売先からカタログ代を徴収することが、およそ考え難いことであるとまでいうことはできない。

そこで、次に、原告の指摘のうち、②の丙川の供述内容の不合理性の点についてみると、まず、丙川の供述する共謀の内容と、ジャンプ手形の決済資金が現に調達された経緯との間の符合性の有無が問題となるところ、右決済資金の調達の経緯に関する証拠資料としては、前記一の6(三)において詳細に認定したとおり、ロイヤルホテルでの話し合いを受けて原告から廉価処分先を探すよう頼まれたので、青木敏雄にホームサウナ一〇〇台を三五〇万円で引き取ってもらって右決済資金とした旨の丁原の供述がある。丁原の右供述の信用性についてみると、前記一の3(一)において認定した任意の取調べの段階では丁原からこの点の供述が得られていなかったという問題はあるものの、この点の供述を含む供述調書のうち特に前掲乙三五号証の記載から明らかなように、大宮警察署においては、丁原の逮捕当日行われた同人方の捜索によって、昭和五九年一月三〇日にホームサウナ一〇〇台分の代金として現金四〇〇万円を青木から受領した旨の丙山名の領収証の控えを入手したことが認められるところ、取調官が右領収証控え及び丙川の前記供述の存在を踏まえて丁原を追及した結果、丁原から右供述が得られたものと推認され、更に、前記一の6(六)の中で認定したとおり、裏付け捜査の結果、青木からも丁原の右供述と大筋において符合する内容の供述が得られたことも認められるのであって、以上の証拠関係に鑑みて、乙山検事が丁原の右供述の信用性を肯認し、ジャンプ手形の決済資金の調達の経緯として青木に対する右廉価処分の事実を認定したとしても、これを誤った心証形成ということはできない(なお、右廉価処分に供したとされるホームサウナ一〇〇台が当該時点で現に確保されていたかどうかについては、前記1(三)の(2)及び(3)において認定したとおり、昭和五九年一月二七日までに仕入れられたホームサウナ九九台が丙山への売上げとして計上されており、これを全て右廉価処分に供したとすれば、台数の点でほぼ一致をみるということができる。)。

そうすると、丙川の供述する共謀の内容とジャンプ手形の決済資金が現に調達された経緯の間に概ね符合性があるとみることは不合理な評価ということはできないから、本件の共謀の動機として、右決済資金の調達という直近の動機があった旨の丙川の供述は、その限度で合理性を有しているとみるべきである。

一方、丙川の右供述内容のうち、ジャンプ手形の決済資金の調達という直近の動機が、本件における一連の取込み詐欺を決意することに即座に結び付いたかのような部分についてみると、前記1の(二)(1)及び(四)(1)において認定したとおり、北関東営業所において、丙川らは、昭和五九年一月から同年六月初旬にかけて、坂下本社を介して秀朋産業から六〇〇台にも及ぶホームサウナを仕入れ、このうち、ロジャースを処分先とするものに限っても、三〇〇台を超えるホームサウナを廉価処分して一五三七万円もの利益を上げたことが認められるのであるから、同年二月一〇日を支払期日とする額面三〇〇万円のジャンプ手形の決済資金を調達するというだけでは、右のような一連の犯罪行為をなすに至ったきっかけとはなりえても、これを貫く十分な動機とは認め難いというべきであるところ、捜査段階において、丙川からは、本件犯行を含む一連の取込み詐欺に及んだ動機として、右動機のほか、丙川通商において新事業を営むための資金を調達するという計画があった旨の供述を得るに至っている。

(4) 丙川通商の運営資金を調達する計画があったという点について

そこで、更に、丙川と原告の間では、ホームサウナを廉価処分して得た資金を、丙川通商において新規共同事業を営むための資金として使用する計画があった旨の丙川の供述の信用性についてみると、これについては、原告の指摘するように、丙川らにおいて、ホームサウナを廉価処分して得た金員の中から、丙川通商の運営資金を拠出したことがあるという事実は証拠上全く認めれない上に、捜査段階において入手済みの丙川通商(旧商号・群馬芸能企画)の登記簿謄本によれば、同社の商号変更及び丙川の代表取締役就任の各登記が経由された昭和五九年二月一三日には、同社の本店所在地を北関東営業所と同一の場所に移転する旨の登記も経由されたことが認められることからすると、丙川らにおいては、後に丙山名義の手形が不渡りとなって戊田に本件の犯行が発覚してからも、丙川通商において事業を存続・発展させる意思があったとは到底考え難いことなど、丙川の右供述の内容は、不自然・不合理なものというほかなく、その信用性に重大な疑問のあることは明らかであって、丙川の右供述により、本件犯行を含む一連の犯行が右計画に基づいて敢行されたという事実を認定したとすれば、それは誤った証拠評価による不合理な心証形成というべきである。

(5) まとめ

以上検討したとおり、具体的な共謀状況に関する丙川の供述には、本件における一連の取込み詐欺を貫く動機を説明し得ないという点に証拠評価の上で看過し得ない問題があり、更に、そもそも、供述の全般的な傾向として、本件の共謀が原告の主導で成立したという点を強調し過ぎているところに本件の犯行の実態にそぐわない嫌いがあることからすれば、本件公訴提起時においても、丙川の右供述の信用性を全体として疑う余地があったということはできる。

しかしながら、他方で、前記(1)の中で指摘したように、本件の捜査の経過に照らすと、乙山検事においては、本件を取込み詐欺事犯として構成することを考慮しながら、その犯行に至る経緯、犯行の動機、犯行計画等を解明する上で、丙川の供述を証拠として重視せざるをえなかったということができるのであって、しかも、原告及び丁原の逮捕に一〇日余り先立って逮捕された丙川に対する公訴提起の時点において、少なくとも訴因の特定のために必要な範囲内では右の点を含めた本件の事実関係を確定すべきことが要請されていたという事情をも勘案すれば、具体的な共謀状況に関する丙川の供述のうち、丙山名義のジャンプ手形の決済資金の調達に関するやりとりがきっかけとなり、昭和五九年一月二五日前後頃群馬ロイヤルホテルにおいて、丙川と原告及び丁原の間でホームサウナの取込み詐欺についての謀議がなされた旨の供述部分に限っては、これまで検討してきた諸事情を総合的に考慮して、乙山検事がその信用性を肯認したことを、不合理な証拠評価と断ずることはできない。

(三) 利得金の原告への分配の有無

(1) 本件犯行の利得金の原告への分配に関する各人の供述の推移

前記1(四)の(1)及び(2)において認定したとおり、昭和五九年五月一八日に本件犯行によって得られたホームサウナは、同日中にロジャースに直送の上、廉価処分され、現金三〇〇万円に換金されたことが認められるところ、右現金三〇〇万円の分配・費消状況については、捜査段階において、これを裏付ける客観的な証拠が収集されたことは全く認められず(ただ、前記一の5(三)の中で認定した丁原の日記帳代わりの日程表には、これと一部関係する記載はある。)、これに関する証拠資料としては、既に前記一の中で詳細に認定したように、右廉価処分に直接関与したと認められる甲田及び丁原並びにそれを背後で指示したと認められる丙川の各供述があるだけである。右三名のこの点に関する供述の推移は、次のとおりである。

まず、任意捜査の段階において、甲田は、昭和五九年一二月一八日の取調べにおいてロジャースへの廉価処分の状況を関係資料をもとに供述した際、右現金三〇〇万円のうち一〇〇万円については、坂下に振り出した五月二〇日前後の手形を落とすため、丙川と甲田とで原告のところに行き、丙川がこれを原告に渡した旨供述していた。

次に、丁原は、任意の取調べの段階では、右現金三〇〇万円に特定した供述を行ったわけではないものの(この段階では、丁原は右三〇〇万円に関する廉価処分への関与は明確には認めていなかった。)、バッタ売りによる利得金の中から一〇〇万円を原告に届けるよう丙川に指示されて、これを原告方に届けたことが一度だけあった旨供述しており、逮捕後の取調べにおいては、右現金三〇〇万円を入手した昭和五九年五月一八日当日の行動を供述した際、同日、丙川からこれを原告に渡して来いと言われて手渡された現金一〇〇万円を原告の自宅に届けに行った旨供述した上で、右一〇〇万円を原告に渡した状況を略図に書いて説明するとともに、この件の経緯として、前日頃原告と会った時に同人に丙川が三〇〇万円を入手することを告げ、分け前を貰うようにけしかけておいた旨供述し、その後も、昭和五九年五月一八日に現金一〇〇万円を原告の自宅に届けたという限度では右供述を一貫して維持していた。なお、先に指摘したとおり、逮捕前に丁原が任意提出した同人の日記帳代わりの日程表の同月一九日の欄には、「丙川から甲野へ100万受け取って自宅へ持参す。」との記載があった。

更に、丙川は、犯行に至る経緯及び犯行状況についての具体的な自白をした際、右現金三〇〇万円のうち一〇〇万円については、原告から手形の決済資金として一〇〇万円を都合してくれと頼まれたので、翌一九日に丁原、甲田とともに三人で原告の自宅に行き、これを原告に渡した旨供述しており、その後これと同旨の供述を更に具体化させていたが、次の取調べの際、授受の日にちを同月一八日に訂正する旨を申し立て、その理由として、前回の取調べの際には、記憶の喚起が不十分なまま、刑事から示された丁原の日程表の記載を鵜呑みにしてしまった旨供述した。そして、最後に乙山検事に対し、右現金三〇〇万円のうち一〇〇万円については、原告から一〇〇万円を回してくれと言われていたので、これを丁原に渡して原告に届けさせた旨供述したが、原告宅に赴いたのが誰かという点などに従前の供述から変遷がみられるにもかかわらず、同検事がその理由について何らかの供述を得たことは右調書上認められない。

三名の供述は概ね右のとおりであって、これを総合すると、右三〇〇万円のうち一〇〇万円が原告方に届けられたという点については三者間でも供述の一致をみているところ、実際に原告方に赴いたのが誰であったかという点で、三名の供述相互間に、丙川については同人の前後の供述間に、それぞれ食い違いがあるということができる。また、原告に一〇〇万円を交付した趣旨についても、手形の決済資金の提供とするものと、純然たる利得の分配とするものとで食い違いがあり、これについては、前記2の(二)(4)の中でも触れたように、一〇〇万円が手形の決済資金の提供として原告に交付されたとすれば、別紙三記載の⑤の手形(額面一〇〇万円)に関するものとみることができるので、供述に合理的な裏付けがあると評価することも可能であるが、逆に、右手形の決済資金については、大宮警察署において、これに関する振込依頼書を入手した後に、丙川から右資金提供に関する新たな供述を得ているため、更に証拠関係が錯綜する結果となっている。

(2) 原告の供述の推移と裏付け捜査の結果

これに対し、原告の捜査段階における供述をみると、前記一の3以下において詳細に認定したとおり、原告は、一〇〇万円の受領という外形的事実については右三名の供述に概ね符合するかのような供述をした上で、それを受領した趣旨に関して、右三名の供述と全く異なる供述をしていたことが認められる。

すなわち、原告は、任意の取調べの段階から、昭和五九年五月頃丁原を介して丙川から現金一〇〇万円を受け取った旨供述するとともに、その趣旨は、丙川に貸した金の一部返済である旨供述していたところ、逮捕後の取調べにおいても、同年春頃丁原を介して丙川から現金一〇〇万円を受け取った旨の供述は維持しつつ、その趣旨については、右供述を変更して、原告の経営するクラブ「ボンソワール」でホステスとして稼働していた戊原春子が芸者置屋に残してきた負債の返済用資金として渡された旨供述するに至った。

そこで、大宮警察署においては、前記一の7(四)の中で認定したとおり、右供述のうち戊原春子に関する部分の裏付け捜査を行ったところ、同女からは、芸者置屋「美喜本」に残してきた負債については、「ボンソワール」で稼働を始めるに当たって原告に返済資金を立て替えてもらい、原告に対する負債も、自分の月々の給料の中から天引で返済することによって完済している旨の原告の供述と全く異なる内容の供述を得ている。ただ、その後、美喜本の経営者斉藤美江子からの事情聴取を経て、戊原春子が美喜本に残してきた負債が完済になったかどうかについては疑問の残ることが判明するに至り、かえって、この点に関する原告の供述内容を完全に否定するような裏付けが取れたとは言い難い結果に終わったとみることができる。

なお、原告は、乙山検事による最後の取調べの際には、昭和五九年五月頃一〇〇万円を受け取ったという点については、正直なところはっきりした記憶がない旨供述して、従前の供述を後退させるとともに、これを受け取ったとすれば、その経緯は、右戊原春子の前借金を自分が立替払しておいたところ、同女が自分に借金を残して逃げてしまったため、丁原が同女から取り立てたと言って一〇〇万円を持って来てくれたということか、または丁原自身の自分への借金の返済ということである旨供述するに至った。

(3) 利得金の原告への分配を認定することの合理性

以上の証拠状況をもとに、本件犯行の結果得られた利得金三〇〇万円のうちの一〇〇万円が原告に分配されたという事実を認定することの合理性を検討すると、甲田、丁原及び丙川の前記各供述の内容には、相互に食い違う部分がある上に、当該部分につき同一人の供述中でも変遷がみられるなどの問題が含まれており、このこと(特に、甲田の供述を前提にすれば丁原のこの件への直接の関与が否定され、逆に丁原の供述を前提にすれば甲田のこの件への直接の関与が否定される点など)を看過し難いものとして重視して、右三名の供述の信用性が全体として低下するという評価に至るのも十分に理由のあることであるが、他方で、右三名の供述は、右一〇〇万円が原告方に届けられたという根幹部分においては、捜査段階を通じて一致をみているのであって、右一致の限度で、相互に信用性を補強し合う(少なくとも、信用性を減殺し合うことはない)と評価したとしても、証拠評価として不合理とまでは言い難い。そこで、丁原を介して丙川から現金一〇〇万円を受け取ったことがある旨の原告の供述を、右三名の供述との関係でどのように評価し得るかが問題となるところ、右現金一〇〇万円を受領した趣旨の点に関して、原告の供述には変遷がみられ、変遷の前後で内容の隔たりに著しいものあり、そこに合理的な理由を認め難い上に、変更後の供述内容自体も、(裏付け捜査の結果はこれを余り重視し得ないにせよ)丙川が原告に一〇〇万円もの現金を交付する理由として余りに不自然とみられても致し方ないことなどからみて、乙山検事が原告のこの点に関する供述を信用することができないとの判断に達したのも、是認し得ることである。そして、右判断を前提とすることが許容されるとすると、原告は、結局、丙川から現金一〇〇万円を受け取るだけの理由を何ら説明し得ないまま、丁原を介して、現金一〇〇万円を受け取ったという外形的事実だけを認めていると評価することも、供述証拠に対する一つの合理的な評価ということができる(不利益な事実の承認)。丙川が、丁原を介して、原告に現金二〇〇万円を交付するような事情としては、授受の時期が昭和五九年五月頃であるという点でも符合していることを勘案すれば、右三名の供述に沿う事情、すなわち、本件犯行の結果得られた利得金を原告にも分配すること、または、犯行の継続を図るためにこれを手形の決済資金として提供すること以外に、証拠上考えられないことになる。そうすると、丁原を介して丙川から現金一〇〇万円を受け取ったことがある旨の原告の供述と、右三名の供述のうちでも特にこれと符合性の高い丁原の前記供述とが、内容及び信用性を補強し合うことを重視して、乙山検事において、昭和五九年五月一八日頃、丁原が丙川の使者として、本件犯行の結果得られた利得金の中から、現金一〇〇万円を原告の自宅に届けたという事実を認定したことは、証拠評価として合理性を欠くとはいうことはできない。

なお、本件の公判手続においては、昭和五九年五月一八日には原告が海外渡航中であり、同人が自宅で現金一〇〇万円を受領することは不可能であったという点が争いのない前提事実とされていたことが認められるところ、捜査段階においては、丁原及び丙川の供述に右の点との矛盾があることを踏まえて、両名に対する追及がなされた形跡を証拠上認めることはできない。捜査段階においても、原告の旅券は入手済みであったことが認められ、また、丙川も、一度は当時原告が国外にいたことを示唆するような供述をしていたことが認められるのであるから、捜査して右の点を確認すること自体は容易になし得たということができる。しかしながら、本件における証拠状況は先にみたとおりであって、原告においても、当日現金一〇〇万円を受領したという事実を明確に否定していたわけではなく、その供述内容は、むしろ、これを一定限度で認めたものと評価し得るのであるから、そのような捜査の具体的状況に照らしてみれば、当日原告が自宅で現金を受領することが客観的に可能であったかどうかという点の裏付け捜査を行わなかったことも、捜査の必要性という点で、通常なすべき捜査を怠ったとまでいうことはできない。もっとも、原告は、乙山検事による最後の取調べの際に、現金一〇〇万円を受け取ったというはっきりした記憶はない旨供述しており、右時点で前記不利益事実の承認を撤回したとみることもできるが、それが起訴直前の時期であったことを考慮すれば、その後、本件公訴提起時までに右の点の裏付け捜査を行うべきであったということもできない。

以上検討したところによれば、捜査段階において入手済みの前記証拠資料を総合勘案して、本件犯行の結果得られた利得金三〇〇万円のうちの一〇〇万円が原告に分配されたという事実を認定することについては、客観的な裏付けを欠く供述証拠に信用をおきすぎるのではないかという点に証拠評価上の問題がないとはいえないものの、公訴提起時における判断としては、その合理性を肯認し得ないとまでいうことはできない。ただ、右認定が合理的な判断として許容されるとしても、右金員分配の事実から原告の共謀関係が本件犯行に至るまでの間存続していたことを推認し得るかどうかについては、更に問題が残る。けだし、右金員分配が、純然たる利得の分配という趣旨であったか、手形の決済資金の提供という趣旨であったかについては、捜査段階において解明が十分になされたとはいえず、また、この点を前者の趣旨であった旨供述する丁原は、北関東営業所における廉価処分(による利得金の入手)状況を原告が認識する機会として、丁原から原告に情報提供がなされていた旨供述するが、右情報提供の動機に関する丁原の供述には内容において信用し難い面があり、更に、そもそも、丁原から時機を捕らえて情報提供を受けない限り、北関東営業所における廉価処分状況を認識し得ない立場にあったという点で、原告は、丙川、丁原及び甲田の三名と決定的に異質な立場にあったとみることもできるのであって、右金員分配の事実を前提にしても、本件犯行に至るまで原告の共謀関係が存続していたことを、そこから直ちに推認し得るとみてよいかどうかについては、なお疑問が残るという判断も十分成り立ち得るからである。もっとも、共謀関係の維持・存続という点の解明の必要を強調し過ぎることは、立証上難きを強いることにもなりかねないのであって、財産犯における利得の分配という事実の重要性に鑑みれば、原告と他の共犯者との共謀関係を裏付ける重要な事情として右金員分配の事実を評価することそれ自体は、証拠評価として誤りとはいえない上に、右金員分配の事実が、本件犯行と原告とを直接結び付ける事情であることを重視して、これを本件犯行についての原告と丙川らの共謀関係を推認させる有力な間接事実とみることも、不合理な証拠判断ということができない。

(四) まとめ

既に2において検討した点及び以上3で検討した点を総合勘案すれば、乙山検事において、本件犯行の結果得られた利得金三〇〇万円のうち一〇〇万円が原告に分配されたことを有力な間接事実として、昭和五九年一月二五日前後頃、群馬ロイヤルホテルにおいて、丙川と原告及び丁原との間で(本件犯行を含む)ホームサウナの取込み詐欺についての共謀がなされた事実を認定したことは、心証形成として不合理とまではいうことができない。

4  結論

右のとおり、本件公訴提起は、乙山検事が現に収集した各種証拠資料を総合勘案して、合理的な判断過程により原告に有罪と認められる嫌疑があったといえないにもかかわらず、これをしたものとまでは認められないから、違法性を欠くというべきである。

しかるに、本件公訴事実が第一審で無罪に確定したことは、厳粛に受けとめられるべきところ、これは、本件各証拠によれば、本件の公判手続において、原告訴訟代理人である弁護人が、新証拠(既述のほか例えば甲一九、二四号証。もとよりその不収集等を乙山検事を含む捜査機関の責めには帰せられないもの)を提出したり、一〇〇万円の手交相手等に関し、丙川及び丁原から捜査段階での供述とは異なる証言を引き出したり、検察官とは異なった立場からの証拠評価に関する弁論を展開するなど、積極的かつ有効な弁護活動をしたことが大きく作用して、既述の本件公訴提起の段階での証拠関係ないしその証拠価値を揺るがした結果もたらされたことを窺うことができる。

第五結論

以上のとおりであって、原告の本訴請求はその余の点につき判断するまでもなく理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する、

(裁判官 川島貴志郎 小川賢司 裁判長裁判官山﨑健二は、転補のため署名押印することができない。裁判官 川島貴志郎)

〈以下省略〉

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